演目 夏の共同作業
観劇日時/11.8.3.
出演者/舞踏=工藤丈輝 ベース=瀬尾高志 美術=板谷諭使
劇場名/深川市立美術館・アートホール東洲館ギャラリー

物語を呼び起こす
 ちかごろ、物語を拒否するというコンセプトの舞台パフォーマンスを上演さ
れることが多い。そのことについては別稿で考えてみるのだが、この今日の舞
踏も一見、そのように見える。
 工藤の舞踏を囲むように、瀬尾がベースを奏で、板谷が即興で背景の300号
くらいの絵を描く。
 一番、驚いたのは、即興演奏のベースがまるでこの舞踏の為に作曲されたと
思われるほどに互いに微妙にフイットしていたし、一見、無関係に描いている
ように感じられるやはり即興の背景の絵が、まるでこの舞踏のための背景のよ
うに見える。
 そしてそれはまた逆に舞踏は音楽と絵画とに踊らされているようにも感じら
れるのだ。
 さてこの舞踏を観ていると、工藤の鍛え抜かれた肉体は、ごく自然に物語を
語りかけてくる。
 最初、彼は何か苦しんでいるようだ。まるで生きることに苦悩しているがご
とくのた打ち回る。あくまでもこれは彼の動きから極私的に受け止めたメッセ
ージである。
 やがて着ているものを脱ぎ捨てはじめるのだが、それは人生における様々な
制約を振り捨てようとしているのだ。だが袖が手首に絡んで手錠のようになり
逆にますます彼を苦しめる。
 ついに裸にはなったのだが、やはり彼は苦悩から逃れられない。同じように
普通の人間の身体の動きから突出した不思議な動きで苦しむ。
 そしてかれはついに魚になる。魚になってもやはり同じことだ。苦しみは彼
を離さない。そして彼は今度は野獣になる。
 だが野獣になっても、どこまでいっても同じことだ。生きてることってそう
いうことなんだと、息が詰まるような彼の尽きることのない苦悩だ。
 そして彼は一転、元の人間に戻るべく、投げ捨てた衣服を着ようとする。だ
が一端脱ぎ捨てた衣服をもう一度着るのは、そう生易しいことではない。
 またも苦難の挑戦の繰り返しが続く。裏返しに着そうになったり、左右が反
対だったり悪戦苦闘する。何とかやっと上下は着ることが出来たが、下着のシ
ャツは着ることが出来なかった、あるいはわざとそれは無視したのか?
 何とか辛うじて元に戻った彼は、今度は髪の毛を後ろで束ねて縛った。心機
一転の気構えであろうか?
 こうして彼は新たな生に向かうことが出来たのだろうか?一瞬、頬笑みを浮
かべかけたのだが、やっぱり彼を待ち受けていたのは、最初に戻った苦悩の人
生であったようだ。
 彼の生き方は一巡してまた繰り返す。そしてこのテーマは4年前に観た同じ
この工藤丈輝の舞踏『業晒』の別バージョンともいえる物凄い舞踏であり、約
1時間、目を逸らすことも出来ずにひたすら、この宿命の業に必死に祈るよう
な苦行に見入るばかりであったのだ。