演目 ジャマコ、せかいをすくう。
観劇日時/11.6.24.
劇団名/ハムプロジェクト企画
公演形態/北海道まちめぐり公演・深川公演
脚本・演出/すがの公
スタッフ・出演/天野さおり・大澤恵衣・小川しおり・彦素由幸・友加里
劇場名/深川市 演劇実験室・シャイライサイ工房


一種の演劇革命   
 第三次世界大戦が終わった後の破滅した日本。テレビが使えなく
なった後の世界で、様々な役柄で登場する二人の役者が、ラジオ・
マスコミを通じて、混乱する世界情勢を伝える。
 バカを装っているのか本当に知能指数が低いのか分からない少女、
その世話をする高校生の姉娘。姉は妹のために自分は不幸であると
公言しているし、少女の心の友は1台のラジオ(=天野さおり)で
あり、その少女は自分がこの破滅寸前の世界を救うのだという誇大
妄想の世界に住んでいる。
 この混沌の展開とギャグで包み込まれた猥雑な舞台は、かつて既
成演劇を否定した唐十郎の劇世界を思い起こす。
 だが、すがの公の作劇術は、直裁すぎて想像の膨らまない焦慮感
が強い。例えばあからさまに北朝鮮やテポドンなどが頻繁に出てく
る。これはそのような、ある特殊な現実そのものへの批判であり、
そのことの重大性への指摘は当然だが、普遍性が薄い。具体的過ぎ
て浅いのだ。
 それに対して唐十郎は、メタフアー、つまり劇で表現されている
ことは、ある何かの事実の象徴であったり、その事実の例え話が彼
の戯曲の基本だと言っている。
 唐十郎の作品は、物語もギャグもゆっくりと反芻すると様々なア
レゴリー(寓話)になっていることが分かってくる。確かにすがの
公の舞台は、表面上は唐十郎の舞台に一見似ているのだが、そこが
決定的に異なり唐戯曲には深い味が滲み出る。
 だが、現在の演劇には少ない猥雑さと知的なギャグの連発は、特
に若い観客や観劇ビジターには大いに受け入れられ、すがの公の舞
台の感触は僕が若いころ、演劇革命を起こした唐十郎の舞台に接し
た時の感触ととても似ている。
 特に既成の演劇のヒエラルキー脱却という上意下達でない創造方
法、そして少人数で既存の劇場に頼らずにゲリラ的に様々な場所で
上演する方式は酷似しているのだ。
 そしていま一つは、チープで過剰な装飾の舞台装置や衣装そして
玩具のような小道具類などが、まるで昔のお祭りの見世物の様であ
り、年配者には懐かしい情緒なのだが、逆に若い人たちにはポップ
で目新しい表現なのかも知れない。
 そしてそれらのことは、あの各地でゲリラ的にテントを張って公
演する、劇団『どくんご』にも共通する痛快さである。

     ☆

 さて最後に、ひとこと苦言を呈したい。彼ら若者が全道各地に散
って自分たちの熱い思いを手造りの舞台に託して表現することはい
まどき珍しい貴重さである。
 だが様々な場所で上演するということは、必然的にその土地の様
々な老若男女の観客を対象にするということになる。
 ということは当然、その多様な観客の要望に応える義務が生じる。
自分たちの仲間内だけの観客相手の対応では逆に心離れする観客も
出てくるのは当然である。
 内容の猥雑さとは別に、大人としての対応と品格が求められる。
終演後、彼らとはこのことに関して十分に話し合いを行ったのだが
改めてその重大性を再提言しておきたい。