演目 りんご
観劇日時/11.4.6.
劇団名/シアター・ラグ・203
作/村松幹男 演出/平井伸之 音楽/今井大蛇丸
照明オペ/瀬戸睦代 宣伝美術/久保田さゆり
劇場名/ラグリグラ劇場


不朽の近代古典
 この日僕は、先日来の体調不良でいささか観劇には消極的な気分
であった。でも実に久しぶりの『りんご』上演だったので、多少無
理を承知で劇場に向かった。
 電車の中でも開場を待つ近所のスーパーのロビーでも、なるべく
身体のことを考えないようにして別の種類の読書をしながら時間を
待っていた。
 だが芝居が始まるとそんなことは全く意識に昇らなかった。ひた
すら舞台の世界に没頭した。
 この芝居は何遍観ただろう?おそらく10回以上も観てほとんどの
台詞も動きも知り尽くしている。それなのに全く初めて観たような
感覚で体調不良も忘れて芝居の世界に没入していた。
 零細企業の営業マン山岸氏の苦境の半日の、ほとんど一人芝居で
ある。僕はそれまで基本的に一人芝居を認めていなかったので、こ
の舞台を最初に観たときには少し困った。
 だが今考えると、過去には否定的にしか観られない一人芝居しか
観ていなかったとも言えるのだが、初めてこの『りんご』を観てか
ら一人芝居の存在に目を開かされた。
  ☆
 そして無謀にも僕は、「一人芝居」の分類ということを考え始め
たのだ。それは僕の以後の観劇に大きな影響を与えた。ということ
は、『りんご』は演劇を観るという僕にとって一番大事な作業に、
その考え方の方法論の一つを齎した原点ともなるべき舞台であった
のだ。『シアター・ラグ203』の数多い舞台には、その他多くの一
人芝居がある。
 ただ現在は、その一人芝居の分類というものが、どれだけ演劇の
鑑賞にとって必要であるのかということは少々、疑問符もついてき
たのであるが……その分類の原点は決して色褪せないと考えている。
  ☆
 この山岸氏の苦境は、すべての人間の生きている苦しさの象徴で
ある。そしてこの半日の山岸氏の行動とその苦しさはすべての人間
の苦境の具体的な現れである。
 彼の悪夢に出てくる女は彼の幻想であるばかりでなく、人々すべ
ての苦しみの中から出てくる妄想を代弁している。
 彼のこの半日に絡む人々や幼い子供や蜂や犬やまでもが、すべて
人々が絡む苦衷や追い込まれる様々な状況の象徴でもある。
 この舞台が表現している事象は、人間とその人間が作る世界のモ
デルなのだ。これこそ近代古典の秀作だと思う。
 今日の舞台で感じたことのもう一つに、男の妄想の中に出てくる
女役で出演した田中珠枝の演技があった。
 本物の存在ではないのだが、かといってリアリティのない存在で
あってはならない。あくまでも男の妄想の中での現実であるという
難しい役柄である。
 田中はその現実と妄想とのいわば「能」の登場人物のような存在
を感じさせたのだ。僕は今まで、この役を劇団の女優さんたちに経
験させて欲しいと望んだが、今日の田中珠枝を観て、難しいだろう
なとつくづく思った。
 ともあれ、近代古典と称しても良いと思われるような優れたこの
 作品を誰か別の演出家が舞台化することを期待したい。