演目/煙草の害について

観劇日時/11.3.31.
劇団名/柄本明ひとり芝居
原作/アントン・チェーホフ 
演出・出演/柄本明
劇場名/シアターZOO

エセ紳士の自己暴露

 
これは一人芝居である。僕は一人芝居については様々な考察をしている。大枠では一人芝居を3つのカテゴリーに分け、この芝居はその1、演者が自分の思いや経歴をひたすら話すという展開で、葛藤の経過を表現するべき演劇としては最悪の方法だという信念があった。
 だが今日演じるのは柄本明である。この一人芝居の第一の欠点である自分の在りようをどういう風に表現するのかという関心は大きかった。たとえば小沢昭一が『僕のハーモニカ昭和史』で演じた自分自身の生きてきた歴史の語りで、これは演劇ではない、自分の心の告白である。だからこの「煙草の害について」も、おそらく演劇というよりは身体表現に託した自分自身の生きてきた人生の告白であろうと思って、そこを期待した。
 この講演者は崇高な思いの持ち主を気取っているのだが、だんだんにメッキが剥がれて俗物としての現実が暴かれていくのが、この芝居の面白さだと思っていた。
 ところがこの講演者は初めから、全身が痒くて、ひっきりなしにあちこちを下品にかきむしっている。
 おならをする。痰を吐く、とにかく下品なのだ。それはいい。だが意識的にそれらの肉体的な素朴さを最初からあからさまに出してしまうと、この講演会の参加客イコールこの芝居の観客は引いてしまうんじゃないのか?
 たしかに柄本明の虚実相打つ演技は、どこが素でどこが演技なのか判然としない変な魅力がある。
 だがそれは演劇じゃない。柄本の個人的な変な魅力であり、役者としての力であり、この芝居の成果ではない。
 そしてもう一つの疑問は、この講演者の話題の外れ先の対象がすべて自分の妻への不満であったことが話を矮小化しているように思えた。もっと自分自身だけではなく様々な状況に対する批判があるのではないか? と焦慮感が残る。