演目/アンダンテ・カンタービレ

観劇日時/11.3.16.  11.3.25.
公演形態/TPSレパートリィ・シアター
以下『秋のソナチネ』に同じ


 
近隣の街に合併されそうな小さな田舎の小さな合唱団。何時潰れてもおかしくない、たった6人の合唱団に、一人の女性団員(=高子未来)が、おとなしい弟(=佐藤健一、ダブルで鎌内聡)を無理矢理に連れてきた。そこへ10年前、本番寸前に駆け落ちして合唱団を窮地に落とした女性(=吉田直子)が離婚して帰郷した。
 6人には小さな交友関係といえども、それなりに様々な抜き差しならぬ人間関係と状況がある。そんな、些細だが本人にとっては重大な状況が客観的には滑稽だが本人にとっては深刻な状況が描かれる。
 札幌から転勤して来た音楽の先生(=宮田圭子)は芸術至上主義で、余暇を楽しむ団員たちとの意識の相違に鋭く対立する。この緊迫した状況は、55年前に創られた群馬交響楽団の創生期を描いた映画『ここに泉あり』から延々と引き継がれた、あらゆる「表現と生活との矛盾」という永久のテーマなのだ。
 しかし逆に言えばこれは永久の課題であり、この舞台も、そのテーマはやり過ごす。というかやり過ごさざるを得ないのだ。
その他の出演。仕事に忙しいおばさん(=原子千穂子)。
教育委員会の職員(=岡本朋謙)、
元・町長の孫(=木村洋次)。
代表者の和尚(=すがの公=客演)。
この舞台も第一回を04年5月26日に観ている。僕も地元で似たような活動をしていると、似たような障害もあるが根本的に違う問題もあることを気にしている。(『続・観劇片々』5号所載)
続いて二回目は06年9月24日。このときもやはり金の問題と年齢の制約を問題にしている。身近にすぎるからであろうか? もっとも、たくさんの問題をいろいろ舌足らずに並べるよりも、絞って描いた方が良いのかも知れない。問題を提起する芝居じゃないのかもしれないのだ……と書いている。(『続・観劇片々』14号所載)
三回目は06年12月2日の観劇。「様々な価値観が融合して存在することに意義がある。」という台詞を言うだけの為に登場した山野久治氏の客演があった。(『続・観劇片々』15号所載)
そして今回の感想である。
 同じ集団の同じ芝居を何度も観るとその都度に新しい発見があったり違った見方が出来る場合が良くあり、またそういう芝居がきっと良い芝居と言えるんだろうと思われる。
 この芝居もそういう芝居であった。前回に観た時に傷だと思ったのは、カルカチュアが過ぎてちょっと白ける場面が多いと感じたのが、今回観ておそらくそれは喜劇(人間の存在そのものの、どうしようもない矛盾の可笑しさを表現する演劇)の部分を強調する一種の表現法だと思われると、すんなりと納得が行くのだった。それは多分に僕という観客のその日の精神のありようによるだけのことかもしれないのだが、それも不思議な演劇の魅力の一つでもあるのかもしれないとも思われるのだ。
 芸術至上主義の教師が苛立つシーンであるが、現実にはこういう穏やかな解決の場面はあり得ない、そういう対立は即座に分裂という形で解消される。
 そして両方が弱るか、どちらかが潰れるか、いずれにしても、こういう形での残り方はきれいごとでしかないのだという焦慮感に襲われる。
 だけどこれは現実をそのまま写した訳じゃないので、ある抽象的な理想型というか、その一つの形を示したのであろうと理解する。
 前回までは、そうとは思えなかった場面がそのように感じられたのはやはり何度も観ることによる収穫であろうかと思われる。
 この芝居は一つの典型例を面白おかしく例示してみせたハッピィエンドの本来の意味の喜劇なのだ。だが必ずしも単純なハッピィエンドじゃない。
 5人になった合唱団の今後や、近隣都市との合併による合唱団の生き方も問題として残っている。それはどういう方法で生き延びていくのだろうという期待と不安は残しているように思えた。