演目/西線11条のアリア

観劇日時/11.3.10.  11.3.27.
公演形態/TPSレパートリィ・シアター
以下『秋のソナチネ』に同じ


 
斎藤歩の戯曲には、常識上あり得ない設定の芝居が多い。だけども観ているうちにその荒唐無稽の設えが、何となく納得させられてしまう不思議な魅力が横溢している。
 この芝居の舞台は、札幌に実在する市電の停留所だから、嘘だと分かっていて、本当に起こったことだと錯覚するのだ。
 だが実際にはあり得ない、標識の電源を使ってほんとにリアルに炊飯器で飯を炊くというシーンが不思議なリアリティがあったり、吹雪がこの電停を襲う描写など所詮演劇的表現なのに空想的迫力がとてもインパクトがあったりする。
 この電停に集まる人々は、何らかの原因で死出に旅立つ人たちなのだ。東京から初めて出張で札幌へ来た東京の若いサラリーマンがこの場面に巻き込まれる。
これらの詳しいことは上演の度に何度も小誌に書いているが、第一回は06年1月14日であり、そこではこの不思議な旅立ちよりも、主に雪の圧倒的な表現に、そしてかつて観た雪の舞台に関心の焦点を当てている。(『続・観劇片々』12号所載)
第二回は07年9月23日鷹栖メロディホールの上演。劇場のキャパシティが大きくなった分、雪のインパクトが大幅に小さくなって、その分、この人たちの旅立ちの心境があいまいになったのではないのか? と書いている。(『続・観劇片々』18号所載)
そして第三回目は、07年11月3日、不器用にしか生きられなかった人たちの懐かしい物語。おそらくチエーホフも、悲劇ではなく愛おしい喜劇として、登場人物たちの愚かな人生を描かざるを得なかったように、そんな思わず抱きしめたくなるような人たちの、可笑しくも愛らしい人生の一駒を優しい眼をもって描き出したと思われる。(『続・観劇片々』19所載)
 同じ芝居をもう一度観ようと思うのには、よほどの何かがなければ観ないだろう。そういう舞台には何度か出会った。そしてそういう時ほとんどの場合、2回3回と観る度に何か新しく受け取るものがある。
 違った何かが感じられたり、新しい何かが感じられたりする。だが、それは単純に初めからあったものをこっちが見逃していたのかもしれないし、感じられなかっただけかもしれない。
 だがもう一度観たいと思ったのは、きっと何か見落としたり気になっていた何かがあったからだろうと思うし、やはりそれだけ深い何かがあったとしか思えないのだ。
 今日の『西線11条のアリア』には新しい何があったか?
若くして黄泉路へと旅立つ人たちを送り出す3人、その一人は旅立つ青年の姉であり、もう一人は市電の運転手、そして事情を全く知らない東京からの旅人……
 それらの三者三様の人たちの、柔らかく不思議な関わりが際だってはっきりと明晰に描かれた。
 今日の舞台は楽日だったせいかも知れないが、実に締まった緊張感の満ちた隙のない良い出来であった。
 哀切感と諧虐味とが混然として調和が良く、後味の爽やかな幕切れであった。
今回の出演者。
事故死した若い男女=木村洋次・高子未来。
不審死した男=佐藤健一。姉と弟=宮田圭子・鎌内聡。
東京から出張で来たサラリーマン=岡本朋謙
結婚詐欺で殺された女=林千賀子。運転士=齋藤由衣。