演目/LONELY ACTOR PROJECT

観劇日時/11.1.24.
上演回数/vol.13
プロデューサ/和田研一 照明/前田ゆりか
舞台/上田知 映像/上田龍成 MC/ツルオカ
劇場名/札幌・中央区 演劇専用小劇場 BLOCH

一人芝居の面白さ

 
5編の短編一人芝居オンパレードである。5つの演目はいずれも僕の考える「自分の思いだけを主観的に述べるだけの表現方法」としての一人芝居ではなかったのには安堵した。
僕の考える一人芝居とは、次のように規定する。
1、自分の思い個人の心情だけを延々と述懐する一人芝居に付き合う焦れったさ。
2、そこに存在しない相手役を想像して演じるもどかしさ、あるいは手抜き感。
3、一人で複数の登場人物を演じる表現方法。
僕は一人芝居を第3の方法のみ演劇として認めて来たのだが、今日の5編の中、1編は第1の変形であり、3編が第2の「見えない架空の相手役との対話」劇であり、最後の『ニコルソンジャック』のみ、僕が一人芝居の存在を認める「一人で複数の登場人物を演じる」落語方式と愛称する、第3のスタイルで演じていた。
それはさておき、すべての演目を通して印象的だったのは、人生の哀歓の哀の要素が強く強烈にインパクトがあったことだった。一つづつ見てみよう。

1、『ゆめ 〜あったかいやつ〜』    作・演出/米沢春花 出演/野かなえ
知的障害者らしいの女の子が夢見る、あったか〜い世界。それをOHPを使った背景のスクーリンに彼女の見る夢の世界と現実の彼女の世界とを交歓させて描く。
一人芝居と言いながら、おそらくそのOHPを操作し彼女とのやり取りを影絵で表現するスタッフは少なくとも2人はいるようで、見た目は一人芝居だが、厳密には一人芝居とは言えない。影絵で表現する隠れた役者が複数いて対応しているわけだからなのだ。
だが新しい一人芝居らしい表現を創ったのは面白い実験ではあったし、ラストでスクーリンを引き剥がして現実に戻るシーンは戦慄的であった。

2、『M氏の日常』    作・演出/こけし 出演/中里優香
一人で寂しい女なのか、男の帰りを待つもう若くはない女なのかは分からない。一人寂しく帰った部屋で日常の退屈な夜が今夜もまた始まる。延々と始まる。
男の残した一枚の名刺から、エロチックな夜の冒険がパソコンのインターネットを検索することで始まる。だが果たしてこれは、彼女が男の不貞の事実を暴いているのだろうか? 満たされぬ彼女の欲求不満の解消なのではないのか?
日常の生活が余りにも何もなさすぎて、見ている方が苛つくのも一つの訴えなのかもしれない。M氏というのは、この女性の相手である男らしいのだが、そのMが彼女を規制しているように感じられるのだ。

3、「FLOWER」    作・演出・出演/吉岡尚吾
もう若くはない男がカラオケボックスの受付をやっている。はやらない店だが、それなりに仕事をやって要領よく世渡りをしている。店頭に飾られた花が唯一彼を慰めている。
自宅に帰っても別に何をやるでもない。鬱々とその日を暮している。ある日ユカチャンというかわいい子が入店した。それから彼の生活態度が変わった。毎日がユカチャンを中心に回り始め、店頭の花は生き生きとしているし、帰宅してもユカチャンを想って悶々の日々。
ところがある日、彼女に彼がいることが分かった。急に店頭の花は萎れ、彼はそれでも何とか元に戻ろうとする。

4、『センチメートルジャーニー』      作・演出/南参  出演/岡今日子
男と別れた女が、積立貯金の景品で旅行に行けるという口実で男に呼び出される。その景品は当人の二人でないと無効になるらしい。女は嫌いになった男を刃物で刺し、殺人未遂で逮捕されたが、男の証言で無罪になった過去があるのだ。
二人で会う喫茶店、蟻が入り込み、女はつまみ出して外へ捨てに行くとき指を噛まれる。彼から電話が来る、助けを求める女、彼はそこまで来ている、入り口の扉の下の1センチの隙間から外を覗き見る女……蟻になった女の逃げ場のない妄想のひと時……

5、『ニコルソンジャック』    作・演出/亀井健 出演/ナガムツ
退屈している、もう若くもない女。夜、帰宅して父の形見のコーヒーサイフオンでコーヒーを煎れてみる……気分転換に誰かと何かをやってみる。
これが圧巻だ。さすがナガムツと言える。僕の考える第3の創造方式だ。つまり女は相手の人物と交互に役柄を取り換えて対話劇のように演じるのだ。
落語は基本的に座ったままで、複数の役柄を演じるのだが、このナガムツは舞台中を縦横に使って複数の人物の役柄を演じ分けるのだ。だから一人で演じながら人間対人間の劇的葛藤現場のリアリティが表現できるのだ。
すっかり汗をかいたころ、コーヒーがちょうど入れ具合のころで、女はゆっくりとそれほど好きでもないコーヒーを飲んでみる。
亀井健の、いつもの自己愛の強いナルシズムの台詞はまったく見えず、エンターテインメントの面でも成功した一幕となっていた。
    
 ☆

2と3・4は一人で演じるのだが、一人である必然性が薄く、単に相手役を出さない手抜きの感じが強いし、1は厳密には一人とは言えない。
5のみが辛うじて演劇の魅力の一つとして考えられ、それもかなり高度の表現力を感じるのだ。