演目/芝居の時間です 〜ふらっと編〜

観劇日時/11.1.23.
劇団名/演劇集団 森組
演出/森昌之 音響/岩井英司・野沢尚生
制作/若原未幸・高田依里・渋谷あかね・松平華織・森花音
舞台/岡部和幸・吉田太郎
劇場名/北海道・滝川市 チャレンジショップ『フラット』

シチュエーション喜劇に挑戦

 
滝川の演劇集団・森組が、市内中心部のビルの空き室に陣取る商店街に商業起業を希望する人たちのためのスペースの、その狭いロビーを使って短編演劇を5本上演した。だから照明がなく、天井の蛍光灯をそのまま使った普段着の設えの超ミニ舞台である。
その5本の短編はすべていわゆるシチュエーション・コメディである。最初に各作品を観てみよう。

1、『ピロシキ』作・仲野守
医者(=桃木葵)と患者(=渋谷沙里)との噛み合わないナンセンス会話劇である。医者は患者の片方の肝臓がピロシキになっていると診断する。当然患者は戸惑ってそこから話が展開するがどんどん噛み合わなくなっていく。まるで別役実の諸作品に良く似ている。
このとき患者がどう対応するかが、この話のポイントになると思うのだが、この患者は論理的な態度で応答をするので、ずっこけた面白味が爆発しない。
そのままの台詞で、医者に反応する独特の仕方があると思われるのだが、真面目で硬く、言葉を並べるだけの終始には魅力が薄かった。

2、『現代版・桃太郎』作・池田練悟
4、『現代版・浦島太郎』作・池田練悟

この2編は同じモチーフだし、一つのテーマの別バージョンとも言えるので纏めて考えてみよう。
新米の教師(=福島由惟)が保護者の授業参観に備えて、先輩の教師(=井上雅晴)に教材の扱い方を相談する。
「桃太郎」や「浦島太郎」の絵本の読み聞かせなのだが、先輩はその内容の非現代的な構造をいちいち指摘して、保護者の非難を回避するように物語の改定を進める。新米は大いに納得してヘンテコリンな新しい物語を創って勇躍、教室へ向かう。
これは単純に時代に迎合するご都合主義の強烈な皮肉なのだが、描写があっさりしすぎて印象が薄い。このあくどさはもっと誇張して表現した方が面白いのでないか。
それと新米教師が視線を客席に向けてキョロキョロさせるのは何を気にしているのか、演技が上辺だけになっているのではないかと気になる。

3、『冷蔵庫の何か』作・池田練悟
若夫婦らしい二人(=大崎直樹・内藤有海)が、知らない間に冷蔵庫に入っていた不気味な物体を巡って、お互いに責任のなすりあいをして揉めている。
本来ならその物体についてもっと具体的で必要な解明の努力をすべきなのに、二人ともひたすら責任逃れの言い合いに終始する無責任さを露呈させる。
この舞台も、真面目に議論するだけなので面白味が薄い。もっと体を使ってこの二人のすれ違う思いを大きく表現しないと折角の戯曲の持つアイロニィの効き目が弱いのだ。


4、『空き地にて』作・鄭義信
やっとここでシチュエーション・コメディらしいナンセンスな面白さが味わえた。さすが岸田戯曲賞受賞・鄭義信の作品であり、それを過不足なく表現したことに拍手を送ろう。
都会の広い空地に若い恋人(=前谷尚武・木村美貴)が入ってくる。二人は甘い新婚生活を夢見て、持っていた傘の先端で地面に実物大の自宅の平面図を描いてみる。
しかしそれは徐々にエスカレートして、それぞれの欲望の競い合いとなり、ついにはそれぞれ別のベッドで寝ることまでに想像が至る。
そこへ夫婦同じベッドで寝る会会長を自任するサラリーマン風の男(=岩井英司)が入って来て二人に関係なく、その図面に自分の居場所を描き始める。
あっけにとられる二人だが、能弁の会長の弁舌のとりこになり、女はいつの間にか新しい男に靡いていく。
取り残された男は寂しく、二人で楽しむはずだった線香花火を哀しく一人で点火してみる。このシーンはやっぱり照明の効果が欲しいところだった。
狭いスペースをいっぱいに使った平面図の場所が足りなくなると、三人が競争で客席の後ろいっぱいまで使う破天荒ぶりが面白い。僕はこの、今日最後の演目で初めて声を出して笑った。
  
 ☆

 すべての演目に共通するのは、『空き地にて』を除き、かなり理屈っぽい会話劇になってしまったことだ。だがこの企画は貴重だ。今後の練熟と発展を期待したい。
演目の変わり目に次の舞台の設営の時間を埋めるために代表の森昌之が、その演目に関するうんちくを語る。これが実に良く調べていて感心するのだが、いかにも講義調でボソボソと喋るのでせっかくの話の内容が上手く伝わらない。
たとえば『ピロシキ』ではピロシキの製造法から、その種類まで、『桃太郎』と『浦島太郎』では、モンスターピアレンツの正体や生態まで、『冷蔵庫』ではメーカーか消費者協会の資料なのかは分からないけど、冷蔵庫の中身についての各種統計を、そして『空き地』では竜宮城に代わる「すすきの」の歴史や現状の薀蓄など詳しくマニヤックに調べている。
これももっとエンターテインメントの表現法に一工夫も二工夫もあった方が、全体を引っ張って盛り上げる要素になると思われるのに残念であった。
もしかしたらわざと下手な講義調に演出したのかなとも思ってみたのだが、やはりそれでは折角の苦労の効果はとても薄いのだ。