演目/1富士2鷹3ユニオン

観覧日時/11.1.3.
出演団体/ユニオンプロレス
会場名/後楽園ホール

プロレスは脚本のある格闘技である

 
以前「笑いの内閣」という劇団の演劇を観た時に思ったのだが、「演劇」と「プロレス」は似たところがあるのじゃないかということであった。
 演劇には戯曲があって、その戯曲を舞台という枠の中に立ち上げるという大前提がある。もちろん最近では、戯曲→演出→スタッフ・キャストという一種のヒェラルキーを否定したり、劇場の舞台という場を飛び出す演劇も盛んではある。だが一般的には、やはり戯曲に基づいて舞台で演じるのが演劇であるというのが普通の常識であることは免れない。
 そこでプロレスが演劇に似てくる訳である。プロレスには一定の進行表があるらしい。いかに上手に、その進行表にそって展開するかが、レスラーの演技者としての役目であるらしい。
 そしてそこにはいわゆる演劇の物語とは違うけれども、一夜を通じた物語と同時に、その集団や周りの集団や取り巻く人たちとの別の物語が展開されているのだそうだ。それはフアンにならないと分からない部分が多いらしい。
 そしてその上でいかに上手くハプニングを起こすかが上級の演技者の腕前であり、そこには実力も必要であろうことは想像される。悪く勘ぐれば実力以上の展開も一種の物語として創られるらしいのだが……
「らしい、らしい」ばかりだが、ここまでが「笑いの内閣」で得た知識であり、それを土台にして今回プロレスの実物を見る機会に出会って目のあたりにした実情であった。
 次々と演目が交代し、客席から声援とヤジと笑い声とが休みなく沸き上がりエンテーテインメントとしては上々の雰囲気である。一種の笑劇として大いに楽しめるのだ。
 観客も展開の大筋はあらかじめ了解済みである。それをいかに鍛えられた肉体で表現するのかを楽しむようだった。
 ちょっと面白かったのは6人タッグの女子プロレスである。小さな女の子が二人ほどいたのだが後での紹介によると、一人は中学生もう一人は高校生であるとのこと、二人とも体操教室の生徒であるとのこと。このシーンはまるでチアリーダーのようで、格闘というよりアクロバット・集団ダンスを観ているような感じであった。
 さらに小劇場演劇と似ているのは、こういうミニ団体が東京中に50チームくらいあって選手たちは幼稚園の先生やサラリーマンなどはまだいい方で、ほとんどがフリーターだったり飲食業などでのパート労働者であるという。
 そしてその上部にTVにも出演するような大きくて強いメジャーな団体がいくつかあって選手たちはそこを目指しているエリートたちもいたりして、この辺もいわゆる小劇場のミニ劇団の状況とまったく似ていて、片や体育系で一方は文化系だけれども余りに似ていることに考えさせられてしまったのだが、エンターテインメントとして楽しんだのは間違いなかったのであり、これに嵌る人はあるいは僕と同じ心境なのかもしれないと思ってしまった。
後日、新聞を読んでいたら(朝日新聞11年1月31日夕刊)
新日本プロレス所属の中邑真輔というヘビー級の看板レスラーが「プロレスにもアートな側面がある」といい、実際に彼は大学時代にレスリング部と美術部に在籍し、格闘技と同時に絵画をも学んでいたというのだ。
現在もプロレスラーとして活躍すると同時に、画家としても活動して展示会も開催し、アートプロジェクトを企画していると紹介している。
もちらん太古の昔から文武両道という人間はたくさん居たし、その方が人間として優秀でもあったのだけれども……
一人の人間がプロレスラーと画家との両面を持っているからと言って、プロレスと芸術に共通性があるとは必ずしも言えないし、ましてやこの事例でプロレスと演劇が似ているところがあるとは言えない。
しかし「自分のプロレスのクオリティを上げて、サーカスが『シルク・ド・ソレイユ』になるように自分も変わりたい」と言っていることには何か示唆するところがあるような気がするのだ。
演劇とプロレスという命題も何か面白い展開が期待できそうな気がする。