■■編集後記■■


 
お詫び
 前号の製本作業中に東日本大震災が起こった。慌てて読者の皆様にお見舞いのカードをプリントして挟み込んだ。
「おそらくご家族やご親戚、友人の方々に大変な目にお遭いになった方が大勢いらっしゃると思います」と書いたのだがその時は儀礼的に書いて実感はなかったのが本当だ。
ところが、その後、実際に家族や親族や知人の方たちが被害に遭った読者の方がたくさんいることに慄然とした。
ことほど左様にこの災害は大きく身近だったのだと痛感した。そこまでに思いが至らず表面だけだったことを深くお詫びして改めてお見舞い申しあげます。どうぞ一日も早くお元気で元の生活に近づかれることをお祈り申し上げます。


 震災と自分
 この世紀の大震災には、私ごとき者にも、他人ごととは思えない大きな衝撃があり、生き方や芸術の存在ということについても様々な思いが噴出する。その中で読んだ幾つかの文章を引用してさまざまな思いを確認したいと思う。
『芸術の説得』と題して札幌市立大学教授・武邑光裕氏が北海道新聞11年4月7日付「魚眼図」にカナダの経済学者ガルブレイスの次の文章を紹介している。
「芸術家自身が芸術の社会的役割や経済との関係を自覚し、自分の仕事を私的な表現世界に閉じ込めることなく、能動的かつ社会的に還元する意識を持つこと。もう一つは、人間が芸術への欲求を公然と表現する社会的な条件をつくり、とりわけ芸術文化による生存権の確立を主張すべきだ。」
 僕は以前、「劇作家・演出家で内閣官房参与の平田オリザ氏が、行政に参画して、演劇を初め芸術全般の環境整備のために大車輪で仕事に邁進している実績は讃えるが、すでに水準の高い演劇をたくさん創っているのに、そういう人が本当は行政がやらなければならない役割を担わざるをえないことは、才能の無駄使いであり、うすら寒い感じがする(要旨)」と書いたことがあった。(北空知新聞10年9月8日コラム「演劇と観光」)
この武邑氏の『芸術の説得』は、今度の災害に対する芸術の在り方を述べた文章の一部なのだが、また僕の疑問に対する答えのような気もする。
同じく「魚眼図」11年4月14日の『災害と文学』と題する道文教大教授・神谷忠孝氏は、横光利一の『厨房日記』から、「日本には地震が何より国家の外敵だということです。(中略)一回の大地震でそれまで営々と築いて来た文化は一朝にして潰れてしまうのです。すると、直ちに国民は次の文化の建設を行わなければならぬのですが、その都度に日本は他の文化国の最も良いところを取り入れます。(中略)全国民の知力の全体は、外国のように自然を変形することに使用されずに、自然を利用することのみに向けられる習慣を養って来た」という一文を紹介して「原発は自然を変形する所業であることに気付く。」と神谷氏は言う。
そして11年4月20日「魚眼図」には北大大学院教授・北村清彦氏が『芸術と生きる』で、建築家の香山寿夫氏の「建築という芸術は、否定ではなく肯定を、悲しみよりも喜びを、不安よりも希望を、闇よりも光を表すのにふさわしい芸術なのである。」という言葉を引用し、「音楽=芸術も私たちが生きていくために必要なのである。今は瓦礫の山となってしまった場所に流れる歌のように、人々のそばにそっと寄り添っている芸術が、私たちの絆を深めあい、生きる力を与えることを願ってやまない」と綴っている。


最近の演劇の傾向            11年3月23日
 今日、ちょっとした異業種の人たちの飲み会で、「最近の演劇界での傾向ってどんなものがありますか?」って問われた。
普段そんなことは考えていないので一瞬詰まったが、そこは専門家としてのプライドみたいなものがあるから考えた。
そういえばこの3月に刊行された北翔大学の舞台芸術通信『PROBE』の年間回顧に、僕は「この一年間に観た近代古典の舞台」というタイトルで寄稿したのだが、その前書きに「いわゆる近代古典といわれる作品が多く上演された」と書いている。
確かにその傾向は感じたのだが、これには理由があって、つまり字数の関係で、何かに絞らざるを得なかったという裏事情があったのだった。
そこでもう一度考え直してみると、いわゆる近代古典の上演が多かったというだけにとどまらず、その他にもいろいろと目につく現象はあったと思われる。
たとえば、いわゆる幻想・妄想・潜在意識などバーチャルな世界を描いている舞台も目につき気にはなる。特に若い人たちの舞台に多いような気がするが、これは何を意味しているのか気になるところではある。
もともと演劇とは何かを象徴しているのだからそういう世界が描かれるのは必然とも言えるのかもしれないのだが……
それと対極的なのだが、古いロマンチシズムの強い作品も多く観られることだ。つまり必ずしもある特定の傾向などは、あるようでなく、それぞれがやりたいことをやっている、という極めて健康な傾向であるとも思われるのだが……
その他に考えられるのは、他のジャンルたとえば音楽とかダンスとかは当然だが、美術とか映像とかとのコラボレーションであり、それ以上に演劇のジャンル交流も激しいのだ。
 そしてもう一つは物語性の意識的な排除であろうか? この二つは最近、特に強く感じられる傾向とも言えるのかもしれないのだ。


近代古典について            11年4月7日
 いつも早川書房の月刊演劇誌『悲劇喜劇』に『続・観劇片々』を紹介してくださる大衆演劇研究家の原健太郎氏から、僕が演劇雑誌『PROBE』に発表した「近代古典」という概念について、次のようなお手紙を頂きました。
「(略)(近代古典について)私もかねてから、そうした作品が繰り返し上演され、作者の魂が未来へと継承伝播されていくことを期待するものです。一過性の芸術である演劇の超時間的な在り様を、そこに見ます。すぐれた戯曲が、生まれ落ちて脚光を浴びたとたん暗闇に葬られていくことが悲しくてなりません。近代古典≠ニは良い言葉です(略)」と、過分のお褒めを頂きました。
 「近代」の時期の設定や「古典」の定義などを決めなければならないのだろうが、曖昧のまま走り出してしまった。
時期はおそらく日本と諸外国・地域では異なると思われるし、古典という概念は百人百様だとは漠然と考えていたような気がするのだが……

お知らせ 三つ
 早川書房発行の演劇雑誌『悲劇喜劇』3月号所載「2010年演劇界の収穫」という特集に、例年と同じように、原健太郎氏の御紹介で「演劇書(雑誌・評論など)」の項に『続・観劇片々』27〜29号が紹介されました。
毎年のことながらとても光栄であると同時に、期待に応えられる文章を書いているのかなという不安があります。いつもこの記事を見る度に気持ちを再確認しています。
     ☆
 北翔大学生涯学習システム学部芸術メディア学科舞台芸術コース内『PROBE』編集局が出版している、年刊・舞台芸術通信『PROBE』の第5号が11年2月20日発行され、本号にも、「この一年に観た近代古典の舞台」というタイトルの拙文が、3ページに亘って掲載されました。
     ☆
 劇団『座・れら』発行の年刊演劇誌『風』第2号に「2010年中に観た、道内で上演された演劇から」というタイトルで4ページの拙文が掲載されました。


編集方針の変更    
 ご覧になって分かる通り、本号から編集の方法を変えました。前号までは、観た舞台のすべてを収録して、毎月の最後に特に印象に残った何本かを紹介していましたが、今号からは、感想を発表しなかった作品はタイトル・劇団名・観劇日・劇場名そして作者・演出者のみをご紹介することにしました。
その理由は単純に老齢によるエネルギー不足以外の何物でもありません。もちろん、その作品の感想は、自分のパソコンに保存しておいて、必要に応じて参照できるようにしておきますのでご希望のかたはどうぞお申し越しください。
前号(31号)の訂正
P47 11月の舞台から
『この島での生存方式』の劇団名は、パンサムではなく、
『パムンサ』でした。
お詫びして訂正いたします。