演目 天才バカボンのパパなのだ
観劇日時/10.6.20.
劇団名/劇団ひまわり札幌養成所  
公演回数/第2回アトリエ公演
作/別役実 演出/清水友陽 
スタッフ・キャスト/養成所の学生たち  
劇場名/札幌・中央区・アステイ・ビル内・ひまわり養成所スタジオ

ナンセンスでシュールな舞台
街頭に警察署のデスクを置くということ自体がナンセンスというかシユールな
設定であるけれども、冒頭、設置の場所を巡って署長と担当の警官が果てしな
い口論を繰り返す。
それ自体もナンセンスだが、そこにはヒエラルキー間におけるデス・コミニュ
ケーションという痛烈な風刺がある。
そこへお馴染みのバカボン一家が通りかかり、警官たちと一家の噛み合わない
やりとりが延々と続けられる。一家は自分たちに関係のない事柄にいちいち口
を挟むのだ。 
次に来るのは覗きの被害に遭っている若い女性だ。だがこの女性の供述も核心
を外れている。覗きの犯人を殺すために持っている青酸カリを飲むと言い出す
と、一家も一緒に飲むと言い出し、さらに警官まで同調する。なぜこんなにも
簡単に命をかけるほどのことに付和雷同するのか。
突然そこにあったトイレの窓から腕が出て、外の壁に吊されたトイレットペイ
パーを取ってくれと声がする。
通りかかった少女がちぎって腕に渡す。出てきた男と少女は何事もなかったよ
うに去る。
全員は毒薬の分配量に、まるでおやつの大小に対するごとくに、不公平の文句
を言いながら一斉に毒薬を飲んで全員が死ぬ。そこへさっきの二人が出て、全
員死んでいるねといいながら何事もなかったように通り過ぎる。彼ら二人は現
実の存在でありながら、やっぱり変に歪んでいるのだ。
こういうナンセンスでシュールな舞台を、高校生を主体にした研究所の研究生
たちは、どういう思いで演じているのだろうか? 素朴で幼い演技なのに逆にレ
イアリテイが強いことに少々意外感があった。
03年1月、旭川の劇団『ステージワーク』が、旭川の「シアターコア」でこの
芝居を上演している。その観劇記(続・観劇片々2号=03年9月1日刊)の一
部を抜粋して紹介する。
今回の舞台がとても素朴なので、その観劇記も素朴になったのだが、『ステー
ジワーク』の観劇記は、意を尽くしたものとなったようだ。以下その部分抜粋
の文。
善意が空回りして、噛み合わない会話を無理に噛み合わそうとする結果、逆に
核心を外れて思いがけない最悪の方向へ突き進んでいく。当事者自身の誰もが
冷静に判断できないというパターンの繰り返しが、警察と一家との間にもどん
どんエスカレートしたあげく、ついには全員参加の集団自殺という極限状況ま
で、まったくブレーキが効かず、いやブレーキの存在そのものを意識すること
もなく突き進む。むしろ高揚しつつ自分達がどこへ行くのかも自覚することな
く、逆に幸福感のうちに破滅する。ハメルーンの笛吹き男に連いていって、無
自覚なまま海へ飛び込んでいったネズミたちのような喜劇でもあり、悪名高い
エセ新興宗教集団のようでもある。
そこで問題なのは、トイレである。この劇の進行中、トイレの壁の穴から手が
出て、中から男の声で、「手が届かないから、誰かトイレットペーパーを取っ
てください」と叫ぶ。誰も反応しないと、ちょうど通りかかった女がそのペー
パーを取って穴から出た手に渡してやる、というシーンがある。
この警察とバカボン一家が作り出す世界は、一見、異常世界のようでありなが
ら、実はこの異常さこそが現実の世界であるというならば、一見、異常に見え
るこのへんてこなトイレこそが、実は正常な世界であるという読み方もできる。
そしてこのトイレ世界の男が手を出してペーパーを求める行為は、正常世界か
ら異常世界への通信であり、救出信号であるという見方も可能であろう。(こ
の部分の読みは、同行の溝口信義氏の見解)