演目/ぐるぐるぐる‐その交差する点で‐

観劇日時/10.1.31.
公演形態/北海道舞台塾実行委員会主催
脚本・演出/納谷真大 総合監修/イナダ
舞台監督/坂本由希子 照明/成田真澄 音響/奥山奈々
衣裳・小道具/橋場綾子 舞台美術/野村たけし
演出助手/神馬千代子
劇場名/かでるホール(札幌市中央区)

交わらないぐるぐるぐる

 
前回09年1月31日にリーデイングという公開方式で観たこの芝居の原型に対する感想の部分抜粋である。
     ☆
五人の男女が、ぐるぐる回って底の見えない地獄に落ち込んで行く。普通、シチュエーション・コメディっていうのは、一つの状況の中に複数の人間が自業自得で逃げ道のないラビリンスへ一斉に追い込まれていく滑稽さを描いたものだが、この場合はハムスターを含めて、それぞれの地獄が独立しているので、面白さが一つの場面に収斂して行かない。だから可笑しさが大爆発しない。
     ☆
と、紹介している。それから丸一年経ってどのように変貌したのか。このときはいわゆる舞台(葛藤が起きる場所)が具体化せず、もちろん舞台装置もなく抽象的な場所で演じられているような感じであった。
今度は軽食喫茶店というレッキとした具体的な場所としての舞台がリアルな装置で表現され、人物たちも具体的な生活人として登場する。
その経営者(=武田晋)、店の中二階には怪しい占い師(=小島達子)、天然系のアルバイト(=山ア亜莉沙)、事業を起こしたい二人の女の子(=今井香織・藤谷真由美)、医師の妻(=林千賀子)とその夫(=杉野圭志)、そして画家(=かとうしゅうや)たちが入り乱れて混乱を起こす。
複数のグループが複雑に交差しラビリンス化の意識が明確に収斂したのだが、逆に話が分り難くなった上、表現法が一般的になって、リーデイングの時のような意外性と衝撃性がなくなり面白味が減ってしまったのは逆効果であった。




 1月の舞台から 

『カガクするココロ』『北限の猿』
劇団・青年団  1月8日

僕が始めて観たと思っている「青年団」の舞台は、91年6月「アゴラ劇場」の『ソウル市民』であり、そのとき受けたショックを今年の正月の観劇で新鮮に思い出した。
実はその半年前にやはりその「青年団」の『暗愚小傳』を観ているのだが残念ながら、その観劇記はない。そのころは全ての観劇記録は残していないのだ。
『ソウル市民』観劇記の全部を採録することは出来ないが、平田オリザの作劇術や演出方法に関して、そのとき僕が感じたことを叙述した部分の一部を紹介する。
『暗愚小傳』についても、そのときに一緒に書いている。
―有名・無名の人たちが織りなすとりとめのないような流れの中で、いってみれば高村光太郎が無意識に感じていたその時代、特に第二次世界大戦との関わりを炙り出すような仕掛けになっている。―
『ソウル市民』について。
―高村光太郎の作品名である『暗愚小傳』を戯曲の題名にしたように、それはまさに小さな一人の人間が時代の流れの中で自分が何を感じたかを表現しようとしたことを、この劇『ソウル市民』は、もう一度検証しようといているわけなのだ。―
―世界はいまや無意識の悪意のない罪によって大きな流れを流れている。そしてそのことを自覚していない。自覚してもどうすることもできない。それは結果として自覚していないと同じことだ。それが現代の悲劇だ。―
以上を踏まえて僕は、そのときの劇団「青年団」の表現方法の独自性を驚嘆している。
そして、作・演出の平田オリザ氏は、「デティルに拘ってすべて省略し観客の想像力にまかせてしまう。そういう省略の技法が自分たちの創造方法だ」とも言っている。
その平田オリザ氏はその後も作劇を営々と続けているのだが、いまや内閣官房参与として演劇環境向上のために国家的な視野からの政策立案に精魂を込めている。
偶然に観た『青年団』の再演作品から20年前の衝撃を新鮮に思い出したのであった。