演目/快楽主義の哲学
観劇日時/09.12.27.
劇団名/実験演劇集団「風蝕異人街」番外編
作/宮藤ちぐさ(マルキ・ド・サド『悪徳の栄え』
ジョルジュ・バタイユ『眼球譚』
寺山修司『青少年のための無人島入門』)
演出・照明/こしばきこう
音響オペレーター/Tomomi H
受付/MIKI・Yuka Li
企画・制作/宇野早織
劇場名/札幌・中央区・アトリエ阿呆船
エログロナンセンス
サド侯爵婦人の誕生パーティが開かれている。侯爵の愛人である女中頭シモーヌ(=Saori Uno)。招待客の令嬢ジュリエット(=新井正美)。サン・タンジュ侯爵夫人(=酒井陽香)。令嬢ウージェニー(=国門綾香)達がくる。
人形アリス(=れい子)とシモーヌを含めた5人の女は歌にダンスに時を過ごす。夫人(=黒柳朋哉)も混じって媚態の宴を尽くす。
実はこの招待客3人は、夫人の依頼でシモーヌから夫の寵愛を取り戻すためにシモーヌを狙う刺客だったのだ。
だが反撃して武器を取り上げたシモーヌは、逆に夫人を含めた5人を自分の権力支配下に置く力を得る。
物語原理主義者の僕としては、この話の中にどんなアレゴリィやメタファーがあるのかと探ってみる。既成の倫理や道徳から逸脱することで、新しい人間性を獲得する一つの試みかなと思う。
アフタートークで演出のこしば氏は、社会が下落・下降状態のときには道徳や倫理の過規制が働いて、世の中が変な方向へ進む危険がある。管理社会が閉鎖性を強める危険性が強まり、特にメディアと教育にその傾向が顕著になると説く。
逆にエログロナンセンスがもっと出ることによって解放され、一種の安全弁になるのだということを熱弁した。なるほどそういうコンセプトであったのか。
しかし、それにしてはセミヌードのなり方も中途半端だし、歌もダンスも幼稚園のお遊戯会並みだ。これではむしろ白ける。やるんなら徹底して演じてほしい。それくらいの意気込みを見せたら納得できるであろう。
12月の舞台から
今月は良い舞台が多いのだが、諸手を挙げてという決定的な舞台がない。何らかの欠点が垣間見えるのである。
それらを列挙する。
永劫の館 永遠の美の幻想と虚無というのは良い着眼なのだが、昆虫博士と助手の少年が浮いているのが不満だ。
人形の家 学生の卒業公演としてはどっしりとしているが、先鋭的な発見がないことが不満である。
それぞれ 表現力は高いのだが、現実描写にとどまり、劇としての人間同士の葛藤が少ない