演目/ゴドーを待ちながら

観劇日時/09.12.24.
劇団名/平和の鳩
作/サミュエル・ベケット 訳/青井陽治
演出/横尾寛 照明/青木美由紀 舞台監督/岡本朋謙
著作権代理/フランス著作権事務所
企画・製作/平和の鳩
感謝/WATER33-39 劇団ひまわり アクトコール・尾崎要  劇団 東京乾電池
劇場名/札幌・中央区・シアターZOO

分りやすい寓話劇

 
調べてみたら、かつてこの芝居3回観ている。それを順に要約して紹介する。
94年4月、東京芸術劇場中ホール。このときはわりと暢気に観ている。劇団名もスタッフの記録もない。でも今考えると中々ユニークな観方だ。
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(劇場までの道中3人)知らない街を歩くというのは実に楽しいものだが、今日はいささか時間が気になり好奇心も半分くらいに抑えて江戸川橋の堤防にやって来た。ここは1キロにわたって桜の名所である。時期的には少しはやいとはいえもう神田川の沿道にはいろいろなグループが陣取って花見の宴が始まっていた。
どこの団体でも集団でも大抵桜が咲くと花見というものをやる。しかし改めて考えてみると毎年毎年同じ時期に同じ行事をやるということは一体何なのだろうかと思うわけだ。
ことの始まりにはそれなりの意義があったに違いないのだろうけど、多分いつの間にか習慣となって惰性となってくる。
酒飲みにとっては理由はどうであれとにかく飲めればそれで良いのであって別に理屈をつける必要も意義を申し立てるつもりもないのであるが、この一種の義務的に年中行事をやることに一体何を期待しているのであろうかと少し皮肉な思いで眺めてしまうのであった。
何かを期待しながら結局酒を飲んでおしまいということの繰り返しは、平和だといえば暢気な話だが、虚しいといえば所詮人生なんてそんなものかもしれないと虚無的になってしまう。
春は必ず毎年やってくるし、桜は毎年必ず咲く。その程度に待っているものはきっと来るし、それは多分間違いない。しかし春が来て桜が咲いて楽天的に酒を飲んで大騒ぎをしてその次に何を期待するのだろう。繰り返しの毎年毎日の中にやはり何かを期待せずにはいられない人たち。もちろん自分自身もその一人であることは間違いないのだが……
ゴドーを待っている二人の道化はまさに花見の宴に興じる神田川沿いの人たちであった。舞台中央に立つ一本の木が、1幕では葉がなかったのに2幕では見事に緑の葉っぱをつけて花見の舞台は完成した。
毬谷友子は美人で可愛らしく白石加代子は堂々としてしかもコミカルで、このコンビは何かを待つ花見の酔狂人としては実に魅力的である。
麿赤児は上手いのか下手なのか分らないような人だが、とにかく出てきただけで舞台を圧倒する迫力があるのは間違いない。
1幕の終りに出てくる少年は多分この花見の宴に現をぬかす人たちを醒めた眼で見る客観の人とでもいう立場であるのかもしれないが、ではこのポッツォの麿赤児とラッキィの小須田康人は一体どんな役割を持っていたのだろう。
少年は怪作『ドグラ・マグラ』の呉一郎を演った松田洋治であり、その中性っぽいキャラクターが客観の人の位置をよく表わしているようだった。
終演後、合流した2人と合わせて5人、一同はまたも懲りずに近くの居酒屋でゴドーを待ちながら? 花見をやってしまった。
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続いて94年12月、東京・大田区民会館。これはかなり批判的攻撃的に書いている。
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(略)大田区民会館に集まる有志たちが、かつて「すまけい」と名コンビを組んでいて、今は全く舞台から遠去っている太田豊治の舞台を観たいというところから始まったようだ。
僕自身はその伝説の名コンビ『すまけいとその仲間たち』を観ていないので評判しか知らないのだが、それによると「毒舌的、攻撃的、過剰なエネルギーとギャグ(朝日新聞12月5日・扇田昭彦)」となるようだが、その扇田も書いているように「原作に忠実で物足りないほどだ」という評が全くその通りだ。平田満・竹下明子・梅津義孝など個性的で魅力のある実力派俳優を揃えながら、もしかしてその若手たちは、すまけいの名前に位負けしてしまったのか全く存在感がなく、「あれ、そんな役者が出ていたんだ」というくらいの感じである。
ナツメロ委員会の博物館的上演など面白くもなんともない。この戯曲の「何かを待っているのだが、その何かが来ない」という時代の閉塞感はまさに今の時代にピッタリしていると思うのに博物館を見せたってしょうがないだろうが……人心を撹乱させるべく、もっと過激にやれ! と思うが……
すまけいは最近『こまつ座』を主体に良い芝居を見せているのに、歳をとったから枯れたというんじゃつまんないだろが……
話変わるが、新国立劇場の『紙屋町さくらホテル』の大滝秀治を観よ! 僕は暮れのTVで観ただけだが、あの大滝は凄みがあった。
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なお次号の後記に、ある読者の苦言に対して、「(略)この芝居に「時代に閉塞感」という勝手な思いだけを閉じ込めてしまったのはいかにもステロタイプだったとは感じている(略)」と書いている。
後日、雑誌『テアトロ』に「(太田氏の訃報の後)太田の不治の病を知った有志たちが企画し、その意を受けたすまけいが参加して上演された舞台であった(略)」ということだ。あの芝居を評価しなかった僕の気持ちは今も変わらないが、もしその事実を知った後で観たらまた違った感想が出ていたかも知れない。とも追記している。
さらに00年2月、TOKYO・FMホールで演出・美術が串田和美のスタジオ・コクーンの舞台を観た。
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(ガランとしたラジオのためのスタジオを飾り込んで上演された、その設営を描写した後)華やかで野暮ったい、西部劇の遊園地みたいな電飾で飾られ、ポッツオとラッキーは仮面を付けて、いかにも遊び心と祝祭性の強い舞台。尾形拳の大柄でボソボソと喋るボケぶりと、しなやかな串田和美の軽やかな演技は息が合って見事なんだが全然面白くない。
二人のやり取りが自己存在の不定感であるとか、ポッツオとラッキーが支配者と被支配者の関係、ラッキイの突然の意味不明のお経のような学術用語の羅列は空虚な知識至上主義だとか、分りやすい解読は出来てもさっぱり面白くない。
先日観た『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』は、きっとこの『ゴドーを待ちながら』から大きな影響を受けたと思われるが、あの爆発的な面白さにくらべたら雲泥の差である。この『ゴドーを待ちながら』にも何か見えるのではないかと期待したのだが、それはなかった。
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さてそこで今日の舞台。ZOOの舞台と客席を横長に使って間口の広い舞台を造った。これは何かを待っている野外の左右の深さを表現するには良い方法だと思う、ただし奥行きの浅さが気になるが、この狭い劇場ではどちらかを取らざるを得ないだろう。
まず気になったのは、ウラジーミル(=清水友陽)とエストラゴン(=横尾寛)の掛け合いが辛気臭い。もっと世俗的というかリアリティのある存在にならないか。この二人は日常的で退屈で展望のない話題を繰り返しているわけだから。
4人全員が同じ帽子を被るという演出は一種の様式美を目論んでいるとすれば、この二人の人物造形もそういう観点からの演出かなとは思うけれども……
ポッツオ(=西本竜樹)とラッキィ(=赤坂嘉謙)のアレゴレィは無智の大衆と巧妙に搾取する権力者という図式があられもなく一直線に露呈してむしろ潔癖だった。特に赤坂は白塗りで無表情な演技は不気味であり悲哀感が強く出ていて印象的であった。少年は「劇団ひまわり」の野崎翔。15歳。
大作を田舎芝居風の設えで上演したのが、むしろ新鮮なイメージであった。