演目/化 粧

観劇日時 09.10.10.
劇団名/北翔大学短期大学部 人間総合学科舞台芸術系5期生試演会
作/井上ひさし 演出/村松幹男 出演/水上真由郁
劇場名/札幌・豊平区・澄川・ラグリグラ劇場

若い才能ある役者の誕生

 
この舞台は、僕が忌避する二つの禁を犯している。その一つは「一人芝居」であるということだ。一人芝居については何度も言及した。改めていうと基本的に僕は一人芝居を認めない。少なくとも『シアター・ラグ・203』の舞台を観るまでは…
一人芝居には僕の分類で三つのパターンがある。その第一は、演者が登場人物の個人的な思いを延々とひたすら述べるだけという最悪のパターンだ。それなら何も舞台を観なくても本を読めば良いということになる。
 第二は、一人の演者が、相手がそこに居る想定で、その架空の相手役を対象に演技をするというパターン。それならその相手役を登場させればいいのではないのか、それをしないのは単なる手抜きじゃないのか、という思い。だが例外として幾つかあげた戯曲の一つが、この『化粧』である。
 そして第三は、一人の演者が複数の人物を演じて劇の展開を進めるというやり方。
 僕は、演劇とは複数の登場人物が葛藤を起こし、その葛藤の結果、人間関係が変化し人物や周りの環境がどう変化するのかという展開の現場に参加するのが、演劇の観客の立場であると考えているので、一人芝居というのは演劇のあり得べきやり方ではないと思っていた。
 その中では第二のパターンと第三のやり方は、辛うじて演劇として認められるものがあるのかなとは思ってはいた。
 今日の「化粧」は完全に第二の方法である。しかも人生の辛酸をなめ尽くした女の深い哀切の物語である。そう簡単にアマチュアの歯の立つ戯曲じゃない。
 そして二つ目のタブー。僕は特に若い人の演劇は戯曲そのものを自作するべきであると思っている。若いアマチュァは自分たちがやりたいことをまず台本に書くことが大事であるという信念があり、なまじ力もないのに名作を上演するのはおこがましい、ただし演劇表現の勉強のために出来上がった戯曲を上演してみるのはいいであろうが、入場料をとって観客に見せるべきものじゃないと思っていた。
 今日の「化粧」は、大胆にもその二つの僕のタブーを犯している。ほとんど好奇心で客席に座った。
 冒頭、大衆演劇の女座長がおそらく場末のうらぶれた劇場の楽屋で寝汚く転がっている。開幕50分前、起きあがった座長は、開幕の準備に入る。そのときのせりふに大きな違和感があった。まるで大衆演劇の芝居のせりふ回しのように、大げさで持って回ったような不自然な台詞の発声なのだ。
 僕の既成観念では、この女座長のこの場の在り様は、一種の閉塞感に絶望している、しがない一人の女だったように思っていた。
 ところがこの女はかなり違っていた。これは何だろう? 演技計算が突拍子もなく違っているんだろうか?
 だが、この座長女優が出演する出し物の準備のためにメーキャップしながら、座員たちに次々と指示したり説明したりする日常の風景は明確であった。
 やがて舞台で演じられる母子の悲劇とシンクロする現実の座長と、その昔捨てた息子との対面の場面になると、かなり心情は予定調和的になる。
 つまり、母親と息子の不条理の別れが、ここで回復されるであろうという展開に観客はどういう対応をするのか?
 ところが、あっけなく人違いであると分かった女座長は、己の人生が全否定されたごとく狂乱する。静かに狂乱する。
 そこで分るのは開幕冒頭、違和感のあった女座長はすでに狂気の人であったのかということであった。
この20歳の若い女優の卵が、なんとも見事にこの座長を演じて、僕の一人芝居無用論をあっさりと蹴散らしたのは、むしろ爽快であった。
 もちろん大分以前から「Theater・ラグ・203」で上演される一人芝居をたくさん観てきて、考えがいささか変わってきてはいたのだが、今回はまったく脱帽であり、二番目のタブーも、良い戯曲をキチンと演じれば良い舞台が出来るということが証明されたのだ。役者の完勝である。