特 集

ただちに犬

劇団名/劇団 どくんご
公演形態/テント劇場による全国ツアー
観劇場所/江別市『外輪船』横の広場
     深川市文化交流ホール「み☆らい」前・駐車場、留萌神社・境内
構成・演出/どいの 演奏・撮影/プラスマイナスゼロ
出演/まほ・丹生みほし・時折旬・五月うか・暗悪健太


感覚的魅力と理性的解釈

 『どくんご』の摩訶不思議で独特な幻想世界に魅された僕たちは、深川での受け入れまで引き受けてしまったのだ。
僕は、深川公演が終わると同時に、すぐに『観劇片々』に、その感想を書いたが、その後、一緒に観た人から文章が送られてきた。それを読んでいるうちに、そのままにしておくことは出来ないという気持ちが強くなった。
それほど、この芝居のインパクトが大きかったということであろうか。早速、そのほかのご覧になった何人かの方たちに、その感想をお願いした。
すぐに書いてくれた人、何度も書き換えた人、少し時間が経ち過ぎたためか細かなところを思い出すのに少々手間取った人……。だが、皆さん実に面白い発見をしており、魅力的な文章ばかりであった。
勿論、この劇そのものを否定した方もいて、僕は本当はそれも書いて欲しかったのだが、その方たちは様々な別の理由で書いていただけなかった。それが心残りである。
さて大きく分けて二つの見方があったようだ。一つは、狭い舞台から徐々に広がっていく演技エリアと、そこに繰り広げられるいわば一種の祝祭的空間がもたらす芸能の原点とも言える、素朴で生理的で強烈な魅力である。
そして二つ目は、抽象的な物語が発するメタファーから具体的な物語を想像する、観客の論理的創造力を刺激する魅力である。無限に広がるその想像世界を観客が自分で構築する面白さであろうか……
以下、その全てをご紹介する。



■内的世界の吐露と過剰なナルシシズム 
北広島市  伊東 仁慈子

観劇日時/09.7.12.
劇場名/江別市「外輪船」横・芝生・テント劇場

プロの料理人は、客に最上の料理を出す。客は口に合わなければ途中で席を立つか、料理人に文句を言うか、多分二度とその店には行かない。
プロの料理人に、「砂糖がたりない、油っぽい、塩を足せ」というのは失礼であろう。自分の舌が狂っている可能性が大であるかもしれない。
そこで「どくんご」の舞台『ただちに犬』である。
素材が良いのに勿体ない。『どくんご』の人々は役者として人として、個々それぞれに魅力的なのに……
それが狙いかも知れないが、繰り返しが多過ぎパターン化されて、観る側の私は食傷ぎみとなる。
人物が皆、大声でアジテーションしているように聞こえる。内的世界の吐露だが、観客は圧倒されるか、ナルシシズムの過剰さに正視できず下を向く。
緊張感を持続しつつ内的世界を表現するのは確かに難しい。
大声の人、自己陶酔の人、狂的な人、静かな人、あるいは失語症の人がいると、劇空間にアクセントが付くのではないのか?
骸となった犬(人間)は、残酷で哀しくていとおしい。いとおしい犬(人間)は少しずつ狂気を孕み、いたぶられ、原初の国を夢見る。夢見る人々に幸多からんことを。

松井・註 
この劇団名『どくんご』に「どくりんご」という「毒」を発見したのが、この伊東仁慈子である。



☆ どくんご劇 つらつら 
■心音のどっくん、どっくん、どっくんご 
深川市 ♪ おたま 杓子♪

観劇日時/09.07.23.(初日)
劇場名/深川市文化交流ホール「み☆らい」駐車場

 9月18(金)生(なま)暗(くら)い夜道で松井氏とヌーッ!! と出会った。ドッキリ!!
あの日(7月23日)以来、『どくんご』はどんどん顔前に迫ってくる。
待つ間、柱に見た寄せ文字。ジプシー魂のそこぢから。
何よりポスターが全部言っている。

唾(つばき)と汗飛ばし思いっ切り弾けるからだと声、
―→ ただちにいぬっ!!―。ジャーン!!。 と一瞬の間の停止、

〔私〕 だけが知ってる迷宮世界は、はぐらしながら幽遠へとさそう。
ごっちゃ、ごちゃは、いつしか安息を得、こっけいで笑いたくなる。
長丁場の交響楽ダナと思う。
かや舞台の狭さいっぱいに、心音が どっくん どっくん 打っているようだった。

魔性月光=@ま夏の夢・一夜(いちや) ありがとう!
09年9月19日(土)記



■人間世界の俯瞰 

深川市在住  加藤 真佐子
深川市舞台芸術交流協会理事

観劇日時/09.7.23.
観劇場所/深川市文化交流ホール「み☆らい」駐車場

 なんだぁこりゃあ!?
何を言ってるのかさっぱりわからん。
ストーリィがあるような、ないような……
しかし、どういう風にも受け取ることができる。
あの怪しいキャラクターの面々や、手垢にまみれたクタクタの犬の中から次々に取り出される物体など、人間の世界を俯瞰しているのかと感じた。
知らないうちに借景にされた、通りすがりの犬と散歩中の人、自転車の人、全部が動く大道具にされている。
とても面白く楽しかった。是非また来ていただきたい。
テント芝居初体験の友人が、二人とも喜んでくれたことも非常に嬉しかった。   



■「努(ど)食(く)ん (ん)後(ご)」感激記・・・・・

観た後からふつふつと湧き上がるもの

深川市在住   溝口 信義
深川市舞台芸術交流協会 理事

観劇日時/09.7.23〜24. 09.8.6.
観劇場所/深川市文化交流ホール駐車場
留萌市留萌神社境内特設テント劇場

 誰が犯人なのか? 犯人捜しに協力するため、努めて執拗に我が捜査官はストーカーのごとく「どくんご」の追っかけをしましたね。
 「犯人はお前だ!!」
 「あっ! いいえ、犯人は私ですぅ〜」
 捜査線上に浮かんだ犯人は、あろう事か結局私自身の中にいました。犯人も私だったし、あの死んだ犬も私だったのです。
 美味しい食べ物ですらこう努めて何度も食べないだろうに、と、自問しながら「どくんご」の芝居を何度も食べてしまった。そのたびに満腹にならずに。が、しかし、食べる度に心が楽になっていく自分が居たのであります。だから、もう3回死にました。

 それにしても、どうして私は無用のものをこんなに身体に沁みつけて捨てられないのだろう。どうしてしがらみに縛り付けられているのだろう。あぁ、楽になりたい。普段からいかにいらない物を身に憑けて生きていることか……。取り払う事が出来ないでいる自分。

 見ている者の心を解き放つ心地よさ、開放感が押し寄せてくる。自分自身もこうあればと思いながらも、なかなか出来ないでいる飾りの無いどこまでも広々とした心の空間。いつも何かに制約されて身につけている飾り…を…取り払ったらこんなに清々するのだなということに気がつく。たった、ひとときの自由であったけれど満たされた自由であったのだ。

  「ほっ」とさせてくれる一時
  かき立てるノスタルジア
  夢の中のようなひととき
  芝居を切り取って 一枚一枚 絵のように並べていく…
  どの一枚も捨てられない

想い出すのです……繰り広げられた場面の数々を。
懐かしむのです……解き放たれた自由な精神を。

  次第に深まる夕景
  夕闇の中に次第に浮かぶ受付のほのかな灯り
  異国情緒豊な飾りは私のいらないもののすべて

  夜空に回る風車のカラカラという音が今も耳元に聞こえる。
  
体を抜けていく心地よい夜風
  流れる雲
  水溜りに反射して映ったほのかな明かりを…
  雨上がり、濡れた足が記した確かな足跡が舞台にくっきり付いていることを…
  模様なのかと思わせるほどに舞台の床に流れる汗の中に見える真実を……

  小屋の側を通り抜けていくバス
  演ずる人と観る人を遠くから見る人
  飛び交う蚊

  開演前に群舞していたカラスが劇中で飛ぶ事を期待する こ・こ・ろ
  白い壁に映る影がどんどん大きくなっていく…おぉ〜
  犬のおなかの中から次々と要らないものが捨てられていく
  こんなにも溜まっているんだね…色々と……もっと自由が欲しい
  犬の抜け殻を被って息絶えて行く、わ・た・し

  舞台の頭上で輝くライトブルーは宇宙船の窓かと思えるように闇の中で輝きを放つ
  宇宙は深遠で漆黒の闇なのだけれど 地球は闇の中で輝くブルー空間…美しい!
  取り払われた闇の中へ銀河鉄道の汽車が飛んでいく
  愛おしいほどに昔の記憶がよみがえる

 役者それぞれが自分の生き方をなんのてらいもなく……
ってことはないのだが本当は生きていく事に、芝居を続けていく事に、ものすごく制約があるのを漠然と理解しながら、見ている我々の精神を自由にしてくれている。

結局………。
言葉の一つ一つをもっとしっかりと聞いてみたくて幾度か犯人探しに通いましたが、心地よさにごまかされて何一つ覚えていません。でも、覚えていなくてもいい、何も無くてもいいのでした。

 せめてあの時の雰囲気を少しでも手繰り寄せようとしても、風のように通り過ぎていく旅団。一度手に入れたものが遠くなっていく寂しさが残ります。はぁ……(溜息)

 1983年春「どくんご」旅団発足。旅人は私の中で輻輳します。1986年春、はるか彼方からやってきた旅人ハレー彗星。76年ごとにやってくるハレー彗星は漆黒の闇の中を旅しながら53年後に地球に戻ってきます。「どくんご」旅団は観る人々の心を開放しながら旅を続けています。何年後に日本を回って我々の前に姿を表すのでしょう。はぁ……(溜息)



■宇宙人が見た地球の狂態
 
紋別市在住   佐々木 和美
深川市民劇団に在籍して14年目。
3年前に紋別へ転居したため、
役者として 参加不能の状態。

観劇日/09.7.24.
観劇場所/深川市文化交流ホール「み☆らい」駐車場

 7月24日(金)紋別から深川に到着したころは、物凄い土砂降りの雨。腕時計を見ると、まだ時間に余裕があるので、車の中で雨脚が遠ざかるのを待つことにした。
激しく雨がたたく窓ガラスの向こうの深川文化交流ホール「み☆らい」の駐車場に、人が行き来するのが雨でぼやけて見える。
ところで旅テント劇団『どくんご』という名前だけど、この『どくんご』ってどんな意味なのかしら? 変わった名前だなー。それにテント劇場って初めてだけど、こんなに雨が降っていたらやっぱり大変だよね。そんなことを思っている間に、雨も小降りになり、いよいよ私のテント劇場初入り。
階段のような観客席に座っていると、雨も上がり心地よい風が吹いてきた。舞台上に設置してある赤や黄色のセルロイド風の飾りものが、サワサワと音を立てながら揺れている。
そして蚊帳のような布が四隅を吊られて、どこか懐かしさを感じさせる。あの赤や黄色の飾り物は、確か幼いころ掻き氷屋さんで見たような気がする。
それとも父に連れられて行ったパチンコ屋さんだったかもしれない。そんな風に記憶をたぐり寄せている間に芝居が始まった。
男女5人が、舞台の上で1匹の縫いぐるみのような白い犬を中心に、早口でしかも小声でものすごい勢いで各自が喋り出した。それから所々で聞きなれたサスペンス・ドラマのイントロが流れ出す。
私は言葉の意味を聞き取りたくて、耳を象のダンボのようにして役者のセリフに集中してみるのだが、いくら聞いても聞こえてくるのは「○×▽※Щ□φ☆凵!!」と意味不明の言葉。
どうも話しているのは日本語ではないらしい。私は突然ひらめいた。そうか、このテントは実はUFOで、この男女5人は宇宙人なのだ。そしてこの縫いぐるみのような犬だけが、何らかの原因で動かなくなってしまったのだ。それはウィルス感染か故障か、それとも他殺なのか?
この男女5人は、そのことについて原因究明をしているのだ。きっとそうに違いない。それならサスペンス・ドラマのイントロも、意味不明の言葉も納得できる。
しかし今度は日本語で喋り出した。私はすぐに、「さすが宇宙人!! 日本語をマスターするのが早いね」と心の中でニンマリとする。
ところが、その日本語がくせ者だった。余計に内容を複雑にして、ストーリィがさっぱり分らない。私の頭からはUFOや宇宙人は消えてしまいました。
今度は5人が話す内容を繋ぎ合わせたり、何を伝えたいのか理解しようと必死の努力をするのだが、さっぱり分らない。芝居を観るのにこんな大変な思いをするとは―。
ところが客席から笑い声が聞こえてくる。私の感度が鈍いのか能力がないのか、こちらは意味不明で、もんもんとしているのに、周りの人は笑っているのだ。
腕時計を見ると、芝居の半分ほどの時間が過ぎていた。正直、あと1時間、私の中でこの状態が続くのかと思った途端、どっと疲れを感じた。ストーリィを掴もうとして、普段使わない頭をフル回転させたのが原因だと思うのだが……
       ☆
 ところで、この5人の登場人物とは―
・長髪で下腹部だけが異常に太ったジャージ男。
・ 関西弁をしゃべりまくる若い女。
・頬っぺたも身体もまんまるにふくらんだ、幼児体型の女
・いま流行の草食系男子なのか、それとも女なのか? アフロヘアーの性別不明の人物。
・お歯黒で長身のやせ男。
この5人が、白い犬を巡って口の端から吹き出た泡を飛び
散らしながら好き勝手なことをしゃべりまくり、最後は「だから犯人はお前だ」と一人ずつ、まくし立てる。
しまいには、この犬を「冷蔵庫に入れて冷やして食べてください」とアドバイスする人物までもいて、思わず私の口元が緩んでしまった。
これは、もしかして妄想の世界なのだろうか? それならば「だから犯人はお前だ」という言葉を、私の中では「だから悪いのはお前だ」と置き換えてみよう。
それなら白い犬は日本国にしてみよう。いや、あの犬は世界にしよう。そして火を吹く女は、未だ戦争が続く国なのだ。白壁に自分の姿を映し大きく見せる男は、虚像の世界から抜け出せない国なのだ。
シャボン玉を吹き続ける男は、いつか枯渇し迷夢から醒めることを知ろうとしない国なのか? そしてこの5人の男女は利己主義という魔法を掛けられてしまったのだろうか?
もちろん、この解釈は私の妄想です。この芝居を観て、言葉とは一体何なのか? と思いました。
具体的に意味する言葉を捜せなかった分、思わぬ副産物を生み出してくれました。それは私の妄想と「病み付き」という物質です。
最近ときおり、我が家の猫の縫いぐるみ「チョロ」を相手に「〇×※▽☆*Щж!!」と呼んでみるのです。



■劇団特有の《匂い》の魅力 

札幌市在住    村松 幹男
劇団 Theater・ラグ・203 代表

観劇日時/09.8.6.
観劇場所/留萌神社境内特設テント劇場

 ようやっと着いた留萌神社の境内に至る階段に数人の人々がたむろしている。境内に入ると、暗い境内の中に小さなテントの明かりが灯っている。そのテントの周りにも人々が。
なんだか、昔のお祭りの夜店を思わせる懐かしい気持ちに襲われる。受付を通ってテント内に入ると、100名も入れば満員となりそうな小さな客席。裸電球や飾り物に覆われた小さな舞台。役者が小物を売っている。蚊が飛び交い、客席の下に仕込んだ蚊取り線香の煙がなんとなく靄っている。
タイトなスケジュールに忙殺されていた。時間的にも精神的にも余裕が全くなかった。江別の公演も札幌の公演も観に行けなかった。唯一留萌公演だけが、可能性のある日程だった。それでも翌日の夜までに仕上げなければならない仕事があり、当日の昼まで観に行くかどうか悩んでいた。
私のまわりの人間は「どくんご、面白いよ」という(特に松井さんが強く勧めてくださった)。この何年か、テント芝居を見ていないなぁと思い、なんだか日常の雑務(仕事を雑務というのはまずいか)に追われて日々過ごしていくそんな状況に、さすがに嫌気がさして、ままよ、と留萌まで車を走らせた。
行って良かったと素直に思った。芝居に関しては好き嫌い、賛否があるだろう。だが、テントという特性を活かし、神社の境内をも舞台とし、役者が走り回り、火を使い・・・、話の内容そのものの善し悪しよりも、役者自身の演技そのもの、空間そのものを利用し楽しませてくれる表現、そんな芝居は、私に取って懐かしくもあり、新鮮でもあった。なんだか如何わしい見世物小屋を覗き込んだ子供のわくわくした心持ちに似ていると言えようか。そしてそれは非常に面白く、爽快でもあった。
劇団には、その劇団特有の《匂い》がある。それはその劇団の芝居に対する在り方から生まれるものだ。どくんごは、1度その場に足を運んだら、魅了されざるを得ない不思議な魅力を持っている。1年の半分以上、全国を回り、劇団員同士共同生活をし、そしてそれぞれの地域の人々と交流する。そんな劇団の在り方が、なんだか懐かしさとともに私たちを引き付けるからだろう。
飲み会に参加できなかったのが残念だった。来年は何とか時間を作ろうと思っている。



■爽やかで未消化な開放感
 
深川市在住  斉藤 百合子
画家

観劇日時/09.7.24.
観劇場所/深川市・「み☆らい」駐車場

 私は年中、絵の制作に追われて暮らしている絵描きです。そんな私に『どくんご』のテント芝居は、違った風を吹き込んでくれました。最後まで意味不明だったけれども爽やかな気分が残ったのは確かでした。
私が観ていたのは中段中央の席で、舞台には何やらブラブラと飾り物が下がり、蚊帳らしきものがダラリと覆い、おまけに真ん中に柱が立って居て何とも見づらい。
劇が始まると、妙にピント外れな人たちが4・5人、小声の早口で何やら言い争っているが、さっぱり解らない。……だから、目も耳も凝らして集中しました。なるほどこれが狙い目か、お互いの意思疎通が出来ない者同士が同居している感じだ。
さて、それぞれの魅力ある役者さんの中で、私のお気に入りは痩せぎすのノッポでアロハシャツを着た彼です。余り目立たず大声も出さず、お年寄りでもないのに背をまるめ、すり足で出てくるとヒシャゲた声で「ぐゎぐぇぐぇ※&#§……」、気の弱い何処にでも居そうなショボイ姿と細い目が『キモかわいい』そして、けっこう存在感があるから不思議です。
劇の流れも台詞も理解出来ぬまま中盤を過ぎ、何時の間にかブラ下がっていた飾り物が二つ……三つと消えて外側を覆っていたテントも外され、広場全体が舞台になって、役者の鍛えた声は良く透り、広場の奥の人たちはシルエットとなって耳に目に焼きつきました。
見事なまでの開放感は未消化のままなのに、頭の中を風が吹き抜ける感じがして「観劇」癖になりそうです。


■『どくんご』との出会い
 
深川市在住  橋 孝雄 「北空知新聞」記者

観劇日時/09.07.24
観劇場所/深川市・「み☆らい」駐車場

 早春、まだ深川が雪に埋もれているころだった。親しくして頂いている松井さんから、急な呼び出しがあった。「面白い劇団の連中が来てるから、遊びに来ないか」―。1年に140本もの演劇を観ている方からの、弾んだ声でのお誘い。「松井さんの琴線に触れた人たちと会えるなら、そりゃあ行かなきゃ」と、おじゃましたのが劇団「どくんご」との最初の出会いだった。
 紹介されたのは、札幌の演劇関係者と、本拠地・鹿児島の山奥から遠路はるばるやってきたという、「どくんご」の劇団員の一人で釧路市出身の五月うかさん。第一印象は、知的で落ち着いた雰囲気のごく普通の人(失礼!。まさか、肉着を身にまとい、口の中にスーパーボールを入れて奇声を発する、例えようもない異形の役を演じるなんて、この時は思いもしなかったから……)。
話しを聞くと、「どくんご」は結成から25年以上の歴史があるという (おお! 由緒ある劇団なんだ)。しかし、ここから少し気配が怪しくなってくる。どうやら、団員たちは公演のために仕事に就いてお金を稼ぎ、上演のめどが立ったら仕事を辞めてトラックに自前のテントを積んで、全国各地で公演を行ってきたというのだ。
“はあ?”……。「職業=劇団員」ていうだけで「あんたは世の中に背を向けたカブキもんですな」なんて具合のご時勢なのに、公演期間中は舞台用とは別のテントで寝泊りし、自炊生活を送るという……。
北海道にやって来たのは、今年、全国縦断ツアーを行うため、その下準備に各地を歩いているのだという。まさに現代の日本では異端の劇団で、どうやら松井さんは、そんなところにも惚れ込んでいるようだった。
 そして、その舞台と言えば、これまた謎だらけ。今年かける舞台のタイトルは「ただちに犬Deluxe(デラックス)」?……。五月さんに「内容をおおまかに―」と聞くと、「アハハ、犬を殺した犯人探しをする歌あり、踊りありの大人から子どもまで楽しめる舞台です!」……。
混乱する頭の奥底を見透かされないように「そうですか…」と、やっと絞り出したら、松井さんが助け舟を出してくれた。「とにかく、観てほしい。彼らの舞台を言葉で表現するのは難しいんだ」と。
松井さんは4年前、札幌で「どくんご」の舞台を観た。「なんだかよく分からないが、こいつは凄い。もう一度観たい」と感じ、仲間を誘い、翌日の留萌公演にも足を運んだという。「独特な表現力」「難解だけど観たことのない奇妙な魅力」「そしてテントだよテント!」。たっぷりと「どくんご」の魅力を語った後、松井さんは「深川にも呼ぼうや」とにっこり微笑んだ―。
かくして、留萌で一緒に舞台を観た溝口信義さん、桜庭忠雄さん、松井さんの3人が発起人となり、その熱意にほだされた、深川市舞台芸術交流協会、「み☆らい」職員、市民劇団の団員、市職員らで公演の実行委員会を立ち上げた。
形容し難い劇団の公演とあって、委員会の会合はいつも喧々囂々。劇団の資料を見て「み☆らいの前に、こんなテントが建つだけでも意味があるんじゃないかなあ」などと、無責任な発言をしていたのを思い出す。自分は何も出来なかったけど、委員たちの力で公演にこぎつけた。「深川の演劇好きのパワーは、本当に凄い」と、この時、あらためて思った。そして7月、彼らは釧路から一路、深川にやってきた。
舞台について、多くを語るのはよそう。安直な言葉で語られるのを拒絶するかのような凄みを、観劇中、ずっと感じていたからだ。自分には松井さんのように、全てをさらけだして舞台と向き合い、劇評を書く力は残念ながらない。ただ、彼らの舞台を観に、松井さんが留萌まで出かけた気持ちがよく分かった。「もう一度観たい」と思わせる危険な中毒性、魅力が「どくんご」の舞台にはある。
もう一つ。隣に座っていた小学生ぐらいの子どもが、本当に楽しそうに観ていたのが忘れられない。「どこが面白かったの」と聞かなかったことを、今でも悔やんでいる。そして、自分が同じぐらいのころに「どくんご」と出会っていたら―と夢想する。
公演後の団員たちとの交流会も楽しかった。ねえ、松井さん。「どくんご」の舞台、また、深川で観られるかな。



■演じる者と観る者との駆け引き 
深川市在住   渡辺 通子
画家

観劇日時/09.7.24.
観劇場所/深川市文化交流ホール「み☆らい」駐車場

 『どくんご』の芝居を観たのは何時だったのだろう……思い出せないが、面白かった。まるで解釈を拒むような芝居でした。
コラージュあり、モンタージュあり、フロッタージュあり、何でもあり、だが、どの場面がそうかと訊かれても困るのだが、面白くすること、分りずらくすること、舞台上に一緒に引きずり出そうとするかの如く、目が離せなかった。
演じる者と、観る者との間に一種の駆け引きがあり、オイデオイデと手招きしているような挑発的な空間を作ったのではないだろうか……
ただし、繰り返しの面白さに引きずり込まれながら、ある一瞬、ふと眠気に誘われたことを白状しよう。繰り返しは、やはり、繰り返しの単調さも内包しているということに違いない。
通りがかりの人や車を遠景におき展開されたメランコリーな光景。立ち止まった人の、その日常にはあり得ないものを目にした時の驚きは愉快だ。偶然が作り出すものの新鮮なライブ感!! ビジュアル的には大満足のシーンが幾つかあり、テント芝居のスペクタルな面白さを味わった。
裸足で走る火吹き女や、腹の膨れた空気女……いずれも悲しい存在だ。博士の顔。目に焼きついた異様な存在感。凄み。良かった―。



■薄れゆく遠い思い出を追って
 
深川市在住  渡辺 貞之
アートホール東洲館 館長
ふかがわ市民劇団 代表

観劇日時/09.7.24.
観劇場所/深川市文化交流ホール「み☆らい」駐車場

 私は絵を描き、芝居を創る表現者の一人として『どくんご』の芝居を考えてみました。
まず、幕を開ける前の演出。入場券を売る窓口。張りぼての壁をくり抜いた小さな窓。昔あった場末の映画館のような一種危ない雰囲気。入っていくと舞台の隅や観客席をぶらぶら歩き回る異様な出で立ちの役者たち。芝居小屋という非日常の空間に入り込んだ観客者は、幕が開く前からどんどん仮想空間に引き込まれていくのです。
普通の場合は幕が開き、しばらくの間は現実の自分の世界と芝居の織りなす世界との間を行き来し、しだいに芝居の世界に入り込んでいく。
演出者としては出来るだけ早く、芝居の世界の状況を観客者に伝えることを考えますが、『どくんご』の場合は、幕開け以前に観客者はすでに芝居の空間に誘い込まれていくのです。
したがって幕が開いた途端の、不可解な状況や、役者それぞれの内容のまったく聞き取れないセリフを、なんの抵抗もなく受け入れるのです。
小さな声、早口、聞き取れないセリフや役者の表情をつかみ取ろうと懸命になっている自分。しだいにセリフの言い回しに独特の旋律とリズムが加わっていくと、いつの間にか息づかいまで同調していくのでした。
私の好きな芝居は、ノスタルジックでちょっと野暮ったく、反体制的でもの悲しい、昔お祭りで観た田舎芝居が原点にあるのですが、『どくんご』の芝居はそうした私の趣向にピッタリでした。
何回も何回も繰り返す、テレビの火曜サスペンス劇場だったかで聞いたことのある「じゃじゃじゃじゃーん」という音と、それに呼応する役者のリアクションは強烈で、一つの芝居でこのように理屈を超えた感性だけで、ある場面をしっかり脳裏に焼き付ける演出は見事でした。
また、色彩の効果も忘れられません。どこに何をという印象ではなく、日本の大衆演芸の色「朱色」が時には血の色に、時には女性の下着の艶に、時には幼い子どもの人形のように、もの悲しくやるせなく、それでいて強烈な生命力を感じさせるのです。
そして舞台の向こうにある暗がりの中にスローモーションで通り過ぎる自転車乗りや輪回し、遠くに走り去る火吹き女、それらは私の中でしだいに薄れていく遠い昔の思い出のように、やるせない気持ちにさせるのでした。
あの時なんの前ぶれもなく、公民館から出てきた人たちの前に、あの火を吹きながら現れた素足の女に、驚いて佇んだ現実の人。それすらも演出された芝居の一場面にみえました。
そして舞台上の役者と打ち上げの時に見せた素顔の役者の違い。私は、素顔の人間と役者として舞台に上がった時のその格差の大きさに、その役者の芝居に対する思い入れの度合いを測るのですが、打ち上げの時の語らいの中でも私は意地悪くそれを探りましたが、あの時舞台の上で見せた一人一人の役者の強烈なコントラストは見事に打ち消されていたのにも感銘しました。
いい芝居を久しぶりに見せて貰いました。こういう劇団が深川にも来てくれたことに、大きな歓びを持ちました。



■空間を超えた、衝撃の思い出
 
苫小牧在住  瀬川 敏美

観劇日時/09.7.12.
観劇場所/江別市・「外輪船」横・芝生

 江別での公演を観てから3ヶ月になる今、細かなストーリィ自体は思い出せませんが、ただ、役者さんたちの個性と顔の表情、それぞれの場面は断片的に想い浮かびます。
TVサスペンス劇場の「ジャジャジャジャーン」と流れたBGMは、聞き慣れているせいか、つい笑ってしまう。
寒いくらいの気候の中、汗を流し早口で次から次へと出てくる台詞、繰り返された言葉も私の心には響かない。心に入ってこない。私の感受性の問題か? それとも芝居の創り方の問題でしょうか……
テントの外のフアンタジー(?)のシーンを観て、20歳のころ北大のキャンパスで観た、唐十郎の当時『状況劇場』が上演した『二都物語』のワンシーンを思い出した。
ギューギューに詰め込まれたテントの中、開演と同時にテントの一郭が開き、百bはあると思われる彼方から一生懸命に走ってくる人物をライトが照らし出した時の衝撃、芝居はあらゆる場所・空間を舞台にしてしまう唐十郎に感動したことを思い出しました。
一つ、気になっている役柄があります。口の中に詰め物を入れて、頬を膨らませ、そのために台詞が聞きづらく、服は着ぐるみを着ているような役、太っていなければならない必然性があったのでしょうか? 人と思うから疑問の思うのでしょうか? それは犬と考えれば良いのかしら……
それが何かの比喩だとしても素直に伝わらなければ意味があるのかしら? 奇抜な形だけに眼が行って……そんなことを考えていました。



■不思議な魔力に魅せられて
 
本誌編集者  松井 哲朗

観劇日時/09.7.12.
劇場名/江別市外輪船横芝生・テント劇場 
観劇日時/09.7.23.〜24.
劇場名/深川市「み☆らい」駐車場・テント劇場
観劇日時/09.8.6.
劇場名/留萌市留萌神社境内・テント劇場

生と死のあわい(江別にて)

 何処かで犬が殺されたらしい。犯人探しが始まる。と言ってもきちんと物語が進む訳ではない。犬の死を巡って責任転嫁のナンセンスともいえる問答の繰り返しが延々と続く。
 話は一転、主題と何の関係もないようなエピソードの積み重ねがこれまた延々と続く。それは登場人物の一人一人がそれぞれの物語の独演会のような形であり、童話があったり小説であったり詩であったり、お笑いであったり、さらには舞台の奥が開いて野外の緑の中までも広がって演じられる。これは何処かで、犬の死と繋がった生と死について考えられているのであろうか?
 最後には死んだ犬の胴体から、様々な物体が取り出される。日用品やら玩具やらゴミから訳の分からない物まで、おそらく人間に見立てられた犬の身体から、人間の生きていた証としての様々な物であろうと見るのは強引だろうか?
こういう舞台の展開が、リアリティを超越してエネルギッシュに二時間に亙って精力的に演じられるのだ。一種、奇妙な魅力と、滑稽でバカバカしく、そして不思議に哀愁が漂う感じなのだった。


だんだん深まる不思議な感覚(深川の2公演にて)

 深川では23日24日と二日間に亙って2ステージが上演された。そのときの観客のアンケート、イヤ理由はわからないが劇団ではアンケートをとっていない。お知らせを送るために観客の住所・氏名だけの資料票を集めている。その余白に書かれたものを見せていただいた。
「どこかに連れていかれそうでコワカッタ。」
「これは音楽です、舞台は音楽になっていました。」
「こんな世界があるんですね!! 初めて観た時間でしたよ!! ありがとう。」
「一回観ただけでは不思議な感じがしました。何回か観た方が良いような気がします。」
などがあったが、僕が一番同感したのが「何回か観た方が良い。」という感想である。事実4年前の『ベビーフードの日々』も札幌の観劇だけでは収まらず、翌日留萌まで追っかけをやってしまったのだから……
今回も地元の深川で2ステージ上演なのに、その前に江別で、この後また留萌を観たいと思っているのだ。
芝居の内容と何の関わりもないような7人の音楽で幕が上がる。『そよかぜと私』である。クラリオネットを主旋律に、ギターとアコーデオン、そしてパーカッションが二人という編成で何とも爽やかで叙情的な音楽、タイトルからしてこのオドロオドロしい雰囲気と似つかない感じだが、逆にそれが何か懐かしいような暖かいような感じがする。
深川で観て思ったのは、前半の犯人探しだ。次々に誰かを指差して「犯人はお前だ!」「犯人はお前だ!」と、確たる証拠もなしに、しつこいくらいにぐるぐる巡っていく。
一見ナンセンスナ形であるが、これは責任逃れと他人の所為にする世相と、問題の先送りとか、不安の意識的転換とか、いろいろな暗喩が考えられる。
中盤に、5人が交代で一人芝居を演じる部分は、人魚姫はストレートだけど、童話が芥川龍之介だとばかり思っていたのに宮澤賢治の『山男の四月』だったことが分った。何処かで読んだと思っていたのがはっきりと分ってすっきりとしたが、これが全体の構成とどういう関係があるのだろうと新しい疑問が出てくる。
紙鉄砲はお遊びで会場が一緒になって遊ぶ。最近この遊びがあまり見られないので懐かしい。
そして後の二人の分は誰かの詩らしいのだが、誰の詩だったのかは分らない。おそらくある詩を芯にして様々な個人的な思いを織り込んで構成したようである。
延々と続けられる台詞の中に、中原中也「幻影」の詩句が紛れ込んでいるのを中学生女子が発見した。彼女は留萌公演の追っかけをやった一人である。男子高校生も一人、深川で二回観てさらに留萌まで行っている。若い精神に強烈なインパクトを与えたのだろうと思う。
その詩句の間、舞台の背景を取っ払って逆三角形に広がる街の風景を取り入れた野外舞台での、「輪投げ」「火吹き」「自転車乗り」「蝶採りの少年」などの寸景とは、非日常に交錯する日常の心象であろうか? 懐かしいレトロな風景でもある。
普通上演される野外の公園や社寺の境内などでは大自然と共生するイメージだが、深川のように街の一郭を舞台背景にするのは、人工建築物の中に生きる人間たちのイメージであり、両方の舞台を観た者にとっては観客に与える作品印象の大きな差異が、演劇的な即興の面白さとして抜群である。
即興ではあるが、それは舞台装置としての使い方の問題であって、演出・演技はきちんと計算されていて狂いがない。
後半は死んだ犬の腹部を裂いて中から色々な物、例えば玩具だったり衣類だったり装身具だったり、主に女子の所持物であるが、これらはこの死んだ犬、この犬は人間を表わしているのだが、その犬の生きてきた人生の様々な場面を表わしているのではないのか? と思われる。
周りの人々は、それらの物を懐かしみ、ということはその犬の生きてきた時間と自分との関係を回顧し哀悼を捧げているような気がする。そして最後に、皮だけになった犬は誰かに被られてコトリと今度は本当に死ぬ。
死んだ彼との現世での関係は死んだけど、彼が生きた現実は物の存在という形で残るのだが、それは一抹の哀愁を伴って観る者の心を撃つのであった。


潜む魔力(留萌にて)

 4回目なのに、視線を外せない不思議な魔力が潜む。深川から8人の同行者のうち、深川で2回観て、さらに留萌にまで行った男子高校生に「なぜ3回目を観ようとしたのか?」と聞いてみると、「異世界、現実には在り得ない世界を観るという非日常的体験」だという。まさに『どくんご』の世界を巧く言い当てているような気がする。
テントを張るロケーションによって雰囲気がかなり違うのが良く分るのだが、普通の舞台のダブルキャスト・トリプルキャストなどと同じ条件であり、物理的に全てを観るのは不可能だ。
だが今年は、2箇所の人工照明に浮き出す野外、それも取り留めのないような広さの江別と、こじんまりと囲い込まれたような立地の留萌との二箇所、それにコンクリートとアスファルトに囲まれ横の通りを路線バスや自動車が通る都会的雰囲気の深川という、条件の違う場所で観られたことが、とても良い体験になった。
条件の違いは、背景で演じられるいわば日常世界の象徴とも見える人達の動きが、はっきりと違ってくる。特に深川の場合は、通行人が無意識に参加してくるのがリアリティがありながらハプニングがあり特徴的だった。
4回も観るといささかの無理が目に付くのは、こちらの体力の問題か? 一番気になったのは、中間で演じられる5人が一人づつ演じる一人芝居である。
それぞれはそれぞれで面白いのだが、それが全体とどう繋がるのかがやはり分らない。それに何せ長い……何かもう一工夫あって然るべきじゃないのかという疑問が残った。
        ☆
 さて、というわけで僕はどうしてもストーリィというか暗喩というか、物語原理主義者なのだ……。だから『どくんご』も、そういう観点からこの舞台を観てしまったのだった。
        ☆
 ところで、この劇団を紹介するのに「ジプシーのようなボヘミヤン的集団」であると書いた。
書いてから気になって調べてみるとこれらの行動とは、反体制と自由への過程であると言われているようだ。またジプシーとは消極的な退行であり、ボヘミアンとは積極的退行でもあるらしい。
そして、それらは音楽とか舞踏などの表現にとても顕著に現れている。それらが近代的・積極的退行としてのヒッピーに受け継がれ、さらにアングラ表現に受け継がれる。だから『どくんご』は、正にその系統からの嫡出児とも言えるのではないだろうか。日本史にも河原乞食という積極的退行のレッキとした元祖があるわけだ。
最近はアングラというジプシー的ボヘミアン集団としてのテント劇団が激減しているのだが、『どくんご』は出てくるべくして出てきたといっても、既に25年以上の堂々たる歴史を持っているのだ。