演 目
ディア・ドクター/映画
観劇日時/09.7.12.
制作/製作委員会 原案・脚本・監督/西川美和
劇場名/シネマ・フロンティア

本物と偽者

 06年に同じ西川美和の脚本・監督作品『ゆれる』を観て、大きなショックを受けた。
それは仲の良かった兄弟が、他者の存在で変わったのか本音が出たのか、それは誰にも判らないという心理劇が、ゆれる山の吊橋で起こった事件として描かれていた。
「吊橋のゆれ」と「心の揺れ」をシンクロさせた物語で、僕は特に兄の戸惑いつつ変化する心境に目が放せない衝撃を感じたのであった。
詳細は『続・観劇片々』第14号(06年12月20日刊)をご参照いただきたいが、今回の『ディア・ドクター』は、その西川美和監督の第3作目ということで大いに期待して観た。
後から聞いた話だが、前作の『ゆれる』が秀作であったのだが、西川監督自身は「まぐれあたり」ではないのか? という自分の才能の疑惑に苦しめられたということであった。
だからこの『ディア・ドクター』の主人公である偽医者・伊野(=笑福亭鶴瓶)は西川美和監督自身が投影されているということになるわけらしい。
映画は、寒村で診療に当たっている医者が、突然に失踪するところから始まるわけだが、誰もが彼を偽医者だということを知らず、誠実な田舎医者だと信じていたわけだ。
看護師(=余貴美子)だけは知っていたのか、あるいは経験の浅い医者として扱い助力したのか、その辺はわからないが、少なくても秘密を知っている者として偽医者を排除はしない。
新着の若い医師(=瑛太)は僻地医療に献身する伊野を心底から心酔して付いて行く。薬品会社のセールスマン(=香川照之)は、互いに利用しあって良い関係を作っていく。
この医者を尊敬し頼りにしている村の人達が、あまりにも単純・純朴なのが美しすぎる。逆に、だから伊野はその善意を裏切ることに耐えられなかったのかもしれない。
様々な僻村の医療を描写しながら、伊野の自身の葛藤と彼を追う刑事たちの追跡の様子の物語だ。
人間、誰しも裏表があり、彼は当初は意識しなかった大きな問題に踏み込んで行った結果、その人の良さが、ついに姿を晦まさざるを得なくなった善意の悲劇であろうか?
全体に善意の人物たちばかりで悪人が出ないから周囲の悪意が感じられず、伊野本人の一人相撲の感じが強い。ドラマとしては彼自身の内部の葛藤だけでなく、村人や薬品セールスマンや看護師、そしてなにより患者さんたちとの諍いを、それとなく描くと面白いのだろうが、そうなると単なる社会派の物語になってしまうのかもしれない。
自分自身の葛藤こそがこの映画の主題であり、周りの描写は彼の心象風景とも思え、彼の心の葛藤だけを提出したのだろう。
薬品セールスマンの香川照之の存在は、この役者としての魅力があまり出せず勿体無い役柄であった。彼が小悪人だったらどういう展開になるだろうか? などと想像して観ていた。