演 目
天守物語
観劇日時/09.6.21.
主催者名/平成21年度公共ホール演劇ネットワーク事業
原作/泉鏡花 
構成・演出・舞台美術・人形デザイン・衣装・作曲/平常
演出補/輪嶋東太郎 舞台監督/上原伸二・照明/中村浩美
人形制作協力/川口新 文学指導/平悦子
操演/平常
劇場名/深川市文化交流ホール「み☆らい」

伝統芸能のような面白さ

 『天守物語』は様々な顔を持っている魅力的な物語である。人形劇の平常(タイラ・ジョウ)は、全部を一人で舞台に表現する。
僕はかつて色んな集団の『天守物語』を観ている。それらと較べるとこの舞台は「一人人形劇」という制約もあって独特の雰囲気を持っている。
大勢の登場人物は、あらかじめ主に大小のカラーコーンを胴体にして、それに頭(かしら)を差し込んだ形で、舞台の要所要所に配置されている。
そして、その人物が演技をするとき人形師・平常はその人形の頭(かしら)を持ってあたかも仮面を被ったかのように自分の顔の前に差し出して遣う。
二人の人物が対話をするときは、片方の人物は自分の頭にとりつけ、もう一方の人形は大きな布で胴体を表現する。そして図書之助は平常自身が扮する。
実によく考えられた仕掛けで上手く出来ていると感嘆するのだが、逆にいうと、シーンの切り替えに間が空いて大きくリズムを崩すのだ。それは正に致命的なマイナス要素で、芝居をすっかり壊している。
これだけの登場人物を一人で演じようとすると、その次のシーンのために必然的に一定の準備の時間が必要だ。
ならばなぜ演技者を増やさないのか? 僕がいつも言っている一人芝居の最悪の弱点を別の形で、そのまま曝け出しているだけなのだ。
さて、ちなみに過去に僕が観た四つの『天守物語』の観劇記を抜粋で紹介する。
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『はみだし劇場』公演
96年7月22日 新宿花園神社境内特設テント劇場
高取英・脚本 戸波山文明・演出 
『風化』107号 97年刊行に所載 要約・抜粋
多分明治時代の少年の夢見る、前世の自分が見た世界が大枠になっている。まるで夢野久作の『ドグラマグラ』みたいな造りだ。
話は凶作の農民たちと、恋の争いの貴族たちの話が絡み合って結構ややこしい。野外でありながら、きらびやかで金のかかった衣裳で眼を楽しませる。
結局、何物をも齎さない虚無の世界である。中売りの缶ビールを飲みながら、暑さにうだりながらそんな世界を垣間見ている観客一同とは、地獄極楽の絵図を拝んで救いを祈る、閉塞の時代に生きた中世の善男善女のご一行様の再現の姿でもあろうか。
     ☆
『ク・ナウカ』公演
98年10月23日 芝・増上寺大殿前特設ステージ
宮城聰/作・演出 美加里/主演
第一次『観劇片々』3号 99年1月刊に所載 要約・抜粋
東京タワーとプリンスホテルに近接した大都会のど真ん中、増上寺の広大な境内の本堂大階段を舞台にしての上演。
この大きなお寺の本堂の階段を使ったことが、日本情緒の濃いこのお芝居の雰囲気にとてもマッチしていたことは、特筆されるべきで野外での上演は正解であった。
ただ舞台と客席が10bほど離れていて、僕は最前列で観たのだが、相当な距離感があって残念な思いがした。
それでも富姫(=美加里)の集中力の強い心理描写の演技は、引き込まれる魅力が強いのだ。
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『人形劇団ひとみ座』 公演
99年2月5日 俳優座劇場
第一次『観劇片々』4号 99年7月刊に所載 要約・抜粋
この舞台は僕が観た『天守物語』の中では、原作そのままにやったうちの一つであろうと思うが、その結果、物語がはっきりと判り易くなっていた。
富姫の一族はユートピアの住人であり、武士たちは煩悩を捨てきれない人間たち、その中でひとり異界を覗き見て富姫と心を通わせる図書之助という実に分り易い構図がはっきりとした。
そう考えると富姫の妹分である岩代国・猪苗代の亀姫は、ユートピアがその白鷺城という狭い部分で閉じこもっているのではなく、もっとグローバルな範囲をもっているということの具体化だと見える。
人形で演じることで、異界の現実離れした雰囲気が良く出ていたが、対照的に図書之助や武士たちを現実の人間が演じた方が良かったような気がする。
最後の桃六だけ現実の人間俳優(=須田輪太郎)が演じるが、これは逆に生々し過ぎて全体の構成を壊している。
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『劇乃素 旗揚げ公演』(ツカサ版)艶屋プロデユース 
05年9月19日 アトリエ練庵 脚色・演出=矢野ツカサ
『続・観劇片々』10号 要約・抜粋
増上寺の回り縁を使った、あの壮大な舞台の印象が強く、客席数たったの30人、そのうえ手が届きそうにタッパ(天井)の低い雑居ビルの一室で上演するということが想像できなかった。
答えは見事であった。天守閣の五層階の異空間を真っ黒な布と紙で覆った狭い空間に閉じ込めて、その雰囲気を表現した。装置らしいものは一切造らずに観客の想像力に頼ったことが逆に茫漠とした広がりを感じさせたのであった。
『人間たちの身勝手さ』や、『権力階級の自分勝手な論法』などを糾弾する富姫(=松浦みゆき)の台詞、富姫が図書之助(=大友理香子)に、言う言葉や、富姫が図書之助に恋心を抱く瞬間など、いずれも大事な台詞の数々が、クローズアップのごとく浮き出てくるのも意外な効果であった。
         ☆
これらの舞台に較べて、今回の平常(たいら・じょう)の人形舞台はアイデァと技巧だけが突出し、これまでのように『天守物語』の持つ何物かがほとんど伝わらなかったのは残念であった。
おそらく平常は、自分の世界に浸りきって自己陶酔に陥っているのではないのかと思われる。
一種の伝統芸能のような表現方法を編み出したのは手柄であるが、それを演劇として昇華させなければ、その形に小さく固まって好事家だけの趣味的な楽しみに過ぎなくなってしまう危険性を危惧するのだ。
現代を生きる演劇として、どう考えどのような表現方法を遣うのかが大事だと思うのだ。