演 目
薔薇十字団
観劇日時/09.6.20.
劇団名/劇工舎ルート
公演回数/第16回公演
作/清水邦夫 演出/高田学 
照明/伊藤裕幸 照明操作/TAO
音響効果/高田光江 音響操作/杉尾勇人
舞台美術/田村明美 宣伝美術/ナシノツブテ
制作/高田学・加藤亜紀・加藤さつき
劇場名/シアターコア
出演/北野通=木曽好正・アダラートの葉子=中村ミハル

挫折と悔恨

 劇工舎ルートは04年と05年に、この戯曲を上演している。僕はその両方を観て、それぞれ感想を記しているが、その二編を要約して紹介する。
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初演時=『続・観劇片々』第7号より抜粋・要約
今に通じる孤独と連帯
60年代という政治の大きな暗転期に、挫折し力を失い死んだ魂を抱えて、孤独で失われた生の哀しみに逼塞する中途半端な青年たちの一人としての北野通(飯田慎治)。
底辺まで落ちてもしたたかに生きるエネルギーを絶やさない女(田村明美)とのフトした出会い、そのほのかな純愛、挫折と孤独の密室から、純愛と連帯との曙光への微かな期待を突然絶たれた男。しかし女の存在は男が見た一瞬の幻だとしたら……重く今を問い掛ける……
再演時=『続・観劇片々』第9号より 抜粋・要約
蘇りへの痛切な叫び
やはり戯曲の良さがしみじみと感じられる。前半やや緊張気味でカッタルく、肩肘張った感じだが、後半に入って二人の心情が出てくる。それぞれの生に対する再挑戦のエネルギー。全体に丁寧な造りであるだけに、ところどころに垣間見える微細な齟齬が非常に気になるのだ。
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さて今度の再々演はどうだろうか? 基本的にはあまり変わってはいないような気がする。
初演・再演では北野通の挫折が政治の時期によるというイメージが強く、たぶんそれは清水邦夫という作家の作品暦から齎された思い込みの印象が強かったのかもしれない。
だが今回観ていて思ったのは、もっと違う根本的な生き方の問題として観る方がこの戯曲の本質を突くのではないかと思ったのだ。
つまり挫折の悔恨と、その結果の孤独を乗り越えようとする意思、とでもいうような、普遍的な想いが強く感じられたのであった。今回、「渋谷組」というサブタイトルを外したのは、その普遍性に着目したからなのであろうか?
それは北野に限らず葉子にも同じことが言えるのだ。葉子も違った形で、まったく同じ生を生きている。だからこの一種の純粋な愛情が成り立ったと言えるのかもしれない。
今回の舞台が両サイドと背景のすべてを黒幕で覆ってしまったのは正解だと思う。この隔絶された空間で二人の微細な心理劇が求心的に展開するからだ。
ただラストシーンで、背景を通して見える無数の明かりが前回までは電灯スタンドだったのが、今回は電灯の明かりになった。だがその光源が具体的な電球として見えるのは興を殺ぐ。電気スタンドでないのならば、いっそ抽象化された灯かりでありたかった。
さらに遡ること9年前、00年3月11日に『パンプルムス』という劇団のこの芝居を観ている。第一次『観劇片々』第6号2000年8月刊行から一部を抜粋してみる。
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閉じられた幻想の闇の安らぎ
(詳しく物語の展開を説明した記述の後の部分の抜粋)
葉子も孤独な身の上で、オーナーを叔母さんと呼び、支配人を従兄弟と称して擬似家族を幻想している。そして北野の感性にも通じるような女だ。葉子は、もしかして北野の幻想の中の女なのか?
ラスト、瀕死の葉子のリクエストで部屋中の20数個の電気スタンドを一つずつ消していくのだが、多分二人が了解できたときには葉子は死んだように見え、すっかり消えると壁の向こうにたくさんのスタンドが薄赤く、またやや白っぽくぼんやりと灯っているのが壁を透かして見える。妖しく美しく切ないシーンであった。
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緊密に書き込まれたこの戯曲の今回の上演は、これら以下ではないが、それ以上の収穫もなかったような気がする。