演 目
空の記憶
観劇日時/09.6.14.
劇団名/座・れら
公演回数/旗揚げ公演 アンネ・フランク生誕八十周年
作/浜祥子 演出/鈴木喜三夫 舞台美術/高田久男
照明/鈴木静悟 音楽/木内宏冶 音響効果/西野輝明
合唱/北海道合唱団 演奏/風の弦楽四重奏団 滝本志保・真部夕佳・後藤美和子・宇田梓
衣裳/木村和美 ヘアメイク/藤原得代 舞台監督/戸塚直人 撮影/高橋克己
制作/青木通子・寺沢英幸・竹江維子・戸塚直人 手話通訳/菅原順子・渡部三枝子・武田啓子
協力/多数(略) 出演/老紳士(オットー・フランク)=澤口謙 パウラ(実はアンネ・フランク)=小沼なつき(客演)
詩朗読=竹江維子 劇場名/やまびこ座

未来への信頼は、過去の告発で!

 開幕前のやまびこ座の狭い舞台に、ドイツの北東部にある人里離れたベルゲン・ベルゼンの荒野の中の松林が静かに佇んでいる。そこは荒野といえども何か懐かしいような平和で暖かいような既視感のある場所だ。
ここで、これから年老いたオットー・フランクと、ここで非業の死を遂げた娘のアンネ・フランクとが会って、何を話すのかという期待がそうさせるのであろうか?
やがて旅行者のいでたちで90歳の高齢とは思えぬ元気なオットーが現れる。アンネもその聡明な姉・マルゴーも妻さえも喪ったオットーが、それから40年以上の慙愧と怒りの中で得た静かな生活を想像させるような立ち姿である。
そこへ成人したアンネが現れる。オットーに較べてずいぶん若いようだが、オットー自身も実年齢に較べて若いし、何よりこのアンネはオットーの幻影の中のアンネだからこれでいいのだ。事実この感想は後でこじつけた理屈で、観ているときにはそれはチラと感じただけで、その後はまったく気にならずに観ていられた。
オットーは『アンネの日記』が世界中で読み継がれていることを報告し、それらの国々を訪問した経験を語り、それがアンネの生きた証しであり、アンネを同行に誘う。
オットーは、特に日本は世界で唯一の被爆国であり高い文化を持つところであることを強調し、憧れを持つ。
だがアンネはナチスと同盟を結んだ日本を許すことは出来ない。でも、やがてアンネも日本の現状に関心を持つ。
まずこの未来を信頼し希望を語ることによって、オットーの真意とアンネの心情が素直に観ている者に訴える。そういう意識が無理なく沁み込んでくるのだ。
しかしそう簡単に能天気に楽観視していいものではないのは当然だ。厳しく過去を告発しなければならない。
その段階に到ったアンネは、鬼気迫る迫真の演技であり、演技を超えた小沼なつき自身の強い思いが噴出する。
もしこの順番が逆だったら、たぶんステレオ・タイプの単純な表現に対して、一種の拒否反応を起こしたかもしれない。
柔らかな一種の苦悩を感じさせるオットーの登場によって、観る我々の気持ちも柔らかくなって、その結果、一転してアンネの壮絶な怨念も深くこちらの心に突き刺さる。
そういう意味ではこの『空の記憶』はアンネの集大成であるのかも知れない。そして日本だから出来たのかもしれないとも思う……
アンネの存在をとことん架空の事実をもってまで追いかける作者と、関わった舞台人たちの強い思いが染み入る……
さて些細なことかもしれないがいささか引っかかりを感じたことを三つほど述べたい。
オットーの澤口謙はアンネ没後の人生を感じさせ、弱い心と強い心の両面を見せて味わいが深かったが、二箇所ほど台詞が詰まったように思えた。
緻密に構成されて緊迫した状況の中でのリズムの途切れは、全体のバランスを大きく崩す。そちらに気をとられ、とても気になったのは残念であった。
アンネの小沼なつきは、さすがに長年アンネを演じたせいかアンネが成長したらきっとこんな女性であろうと素直に思えて安心して観ていられた。
最初登場したとき、脚にまだら模様のようなものが見えたので、そういう模様が入ったストッキングを着用しているのかと思ったがそれでは如何にも不自然だし、おそらく汚しだろうと思われた。過酷な収容所生活を象徴しているのであろうか? それにしては脚だけというのも変だ。彼女の顔も手も普通なのに。ラストでもう一度出たときには、ボロを纏って汚しを掛けていたので、その想像は当たっていなくもない。
だが、どうしてあの模様のようなものがあったのかは判然としない。おそらく何か肉体的な故障があったのであろうか?
こういう引っかかりは些細なことかも知れない、しかしこのように綿密に計算して表現された幻想舞台では、ほんの些細なことが、さまざまな憶測を膨らませて観客の思いに大きく影響する。
もう一点、背景が黒幕で覆われ一部分に真っ白な幕が引かれて、その白幕に、二人の心象に応じてそれを象徴するような照明が当てられる。狭くて条件の悪い劇場としては最大の配慮であるかも知れないが、僕にはその矮小さがとても気になった。オットー氏の心象風景として黒い幕で三方を閉じ込めたのであろうか?
なぜ背景全体にホリゾントを開いて、広く世界に開放された空間にしなかったのかという疑問である。これはもしかして好みの問題なのかもしれない。しかしオットーやアンネの思いは個人の心象風景に密閉されるべきではないと思うのだが……