演 目
僕たちの好きだった革命
観劇日時/09.6.9.
劇団名/KOKAMI@network
公演回数/Vol.10
主催者/「サードステージ」滝川公演実行委員会
企画・原作・脚本・演出/鴻上尚史 企画・原案/堤幸彦
インスパイア・ソング/GAKU―MC 美術/松井るみ
音楽/HIROSHI WATANABE 照明/坂本明浩 音響/堀江潤
衣裳/半田悦子 ヘアメイク/西川直子 振付/岡千絵
アクション・コーディネーター/宮崎剛・藤榮史哉
演出助手/渡邊千穂 舞台監督/野口毅 
制作/高松輝久・中山梨紗
プロデューサー/古屋建自・福島成人
劇場名/厚生年金会館ホール

時代状況への熱いアジテーション

 ちょうど二年前に、この芝居を観て大いに我が意を得て、そのときの文章は、「今、蘇れ、熱い青春物語」と題して『続・観劇片々』第16号に掲載している。それを再録する。
          ☆
1999年、30年前高校生だった山崎義孝(=中村雅俊)は高校全共闘の闘士だった。文化祭を巡る学園闘争の中で、機動隊の催涙ガスの直撃を受けてそれから30年、意識不明のまま眠り続ける。
そして今奇跡的に意識を回復し、身内で一人生き残った叔母が守った両親の保険金で、高校に復学する。
30年ぶりの母校・高校は無気力で貴方任せで、山崎には信じられない高校生活であった。
まもなく迎える文化祭には、あるクラスで憧れのインデーズ・ラッパーであるタイト・キックを迎えたかったが、学校側は禁止した。
それを聞いた山崎の心は燃えた。「われわれの文化祭は学校や教師のものではない。われわれ学生自身のものだ」という信念のもとに彼らを煽動する。
30年前の熱い高校生と、現代の醒めた高校生たちとのトンチンカンなやり取り……そしてその中から芽生える現代の高校生たちの熱い心……
片瀬那奈と塩谷瞬の演じる二人の男女高校生を軸に、高まりつつ崩れつつ、それでも輪が広がる。憧れのラッパーは放送禁止をきっかけにこの文化祭に応援出演を約束する。盛り上がる高校生たち、躍起になって押さえ込もうとする学校側……
お約束の葛藤があって、山崎は「正しいと思った信念を通すことに闘争の意義がある」と叫んで、30年前と同じく機動隊の催涙ガス弾に当って今度は本当に死ぬ。
高校生たちが見たのは、一場の幻だったのか? 山崎の母校は世紀末の生ぬるい高校生活に戻っていた……
舞台前面から奥へ4列の中割幕を、左右に開いたり閉じたりして瞬時に場所と時間を移動させ、映画のシーンのような激しい場面転換を巧く観せていた。
文化祭の前夜、中村雅俊の歌う岡林信康の『私たちの望む者は』に熱かったあの頃を想い、こっちの心も熱くなってくるのであった……
         ☆
今、この文を読み返してみて前回より焦慮感が大きい。現在の時代状況になぜ人々は立ち上がらないのか? という焦りが熱く感じられるのだ。だからこの文のタイトルもあえて「アジテーション」とした。演劇としてはこの直裁性は評価できないのだが、そのマイナスを超えて訴求力は高いのだ。それほど時代は急迫しているのだと思われる。
同じ号の「後記」に次のような記載がある。
          ☆
ある人の演劇評のブログを偶然見た。『僕たちの好きだった革命』について、「歴史観を根底に哲学をもて」という趣旨だろうと読んだ。
僕には到底考え付かない深い考察力には脱帽したのだが、全体の見方は僕と違う。そのことは様々な見方があろうからそれはそれで良い。
問題は、文中に散見する「バカ! 死ね」とか「ヤキが回ったか」「詐欺師も裸足で逃げ出す」などという、人格を否定するかのような罵詈雑言を読むと、この人の品性の下劣さに心底から肌寒さを感じる。
洞察力の深さに感銘したその裏側の人間性の冷たさ、これを「狷介」というのだろうか? 「狷介」というのは良い意味だとばかり思っていたのだが、辞書(「広辞苑」ほか)を見ると現在では、多く悪い意味に使うと出ていた。なるほど?偏で出来ている語句だ。なんとも後味の悪い劇評だった。
          ☆
この文章は、僕の思いを全面的に否定するような記事であり、物凄く落ち込んだ。表現者はどんな攻撃に襲われるか分らない。そんなことに一々反応していたら表現者は務まらないであろう。
それは僕も当事者としてよく分るのだが、後味の悪さは未だに強く残っている。今回も前回に増してじっとしてはいられないような大きな衝撃を得たのだが、この否定的文書のことを思い出すと心は重くなる。
もう一度、読み返してみようと思い、全文を探し出してA4の用紙に三枚半をプリントアウトしたのだが、読み返す力が出ないことに忸怩たるものがある……
ところで、さて僕は今、一体、何をしたら良いのだろうか、この焦慮をどうすれば良いのだろうか? 同じ「後記」の別の項目には次のように書いている。
         ☆
今、世界も日本もかなり危険な時代に入った。おまけに天然自然現象も何か異常を感じさせる。
僕の肉体は遠からず滅び行く現象だけれども、何だか死に切れないような焦慮感が募る昨今である。
         ☆
さて、もう一度そのブログを読み返して論旨の重要部分を拾い出し、それに対する僕の考えを述べようと思う。
「三十年経ってしまったことを受け入れられないのはただの頑固爺」「今どきラップのコンサートを認めない硬派の学校などはない」という部分。僕はこの部分にリアリティを求めない。一種の比喩だと思う。
学生運動のデモ隊の声が「ワッショイ、ワッショイ」であるが、学生運動はお祭りではないという指摘。僕は、これはその積極的なエネルギーの象徴だと思っている。現在はそれが余りにもなさ過ぎるという思いだ。
だが、「時間の差、つまり『過去』をどのような時代として捉え、『現在』を何と捉えるかという視点が定まっていない」
そして、「話の種になりそうなものは、畠に植えて水をやって育てなけりゃいけないのに、ろくに手入れをしないからまともなものに育たない。この際、畠とはしっかりした時代認識であり、水とはそれを考える思想のことである」という論旨。その通りであることは認めるのだが、僕は芝居は論理や議論じゃない、心意気だという思いが強いのである。
現にこの舞台を観た若い人が、強いインスパイァを受けているのを目撃したからである。