演 目
ベリー・メリーゴーランド
観劇日時/09.4.8.
劇団名/東京遊劇手×THE REDCARPETS
公演形態/シアター711オープニング記念
原案/山田太一 作・演出/金房実加 
舞台監督・舞台美術/田代利之・木村篤 音響/平田忠範 
照明/宇野和義 制作/加藤浩之・大島鮎美
劇場名/シアター711

人生賛歌

 下北沢に新しい小劇場が出来た。かの小劇場の一方の雄である「ザ・スズナリ」の隣で、以前は『下北沢シネマ』という映画館だった所だ。
ここは小さなマンションの二階の一室を改造したミニ映画館だったのだが、今度なぜか急にリニューアルしてキャパシティ70人の小劇場として再出発したようだ。東京も札幌も劇団はもちろん劇場もどんどん増殖する。
これで下北沢の劇場は僕の知っているだけでも七つになった。知らない劇場もあるし都内全体ではいったいどのくらいあるのか見当がつかない。おそらく昔の映画館のような感じだろうし、もっと昔の僕らがリアルタイムでは知らない寄席のようなものかもしれない……
それらを次々と尋ねることは、時間と経済という物理的困難、そして体力の問題を考えると、好奇心旺盛な僕としては嬉しい悲鳴でもある。
時代はどんどん変化・進化? する。変化は良いと思うけど進化は本当に進化しているのか? という疑問符付きだけども……
さて本題である今日のお芝居。舞台はある小さなスナックのようなところ。一人の女性・利香(=桂木ゆき)が、男・亀田(=山田太一)に連れられて入って来る。ここにはママと呼ばれる性同一性障害者・女装の乙部(=堂土貴)、支配人のルノアール(=マスダヒロユキ)、客・竜宮(=白川英二郎)、奥寺(=内田びん太)、そのほか美也子(=田山ゆき)と波乃(=森幸子)という二人の女性がいる。
後で分るのだが、ここは自殺した人があの世へ行く手前で本当に死んでもいいのかと改めて問い直してから本当に死ぬという、いわばこの世とあの世との緩衝地帯のようなところらしい。しかもモチーフは竜宮城の浦島太郎であるそうだ。
この発想は先日来二回続けて観た鈴江俊郎・作の『家を出た』にそっくりなのだ。もちろん偶然だろうが、あまりにも似ているので感想自体も似てしまう。
『家を出た』は自分の意思ではなく不条理に死なざるを得なかった人達に対して、この『ベリー・メリーゴーランド』は自殺者が対象だという違いはある。いずれにしろ自然死じゃない人達ばかりが対象である。
『家を出た』は、「最終的な死を迎えられない人がいることに何となくホッとする」(08.10.26.『演劇集合体・マキニュム』上演『観劇片々』23号所載)
「何のために生きているのかいつ死ぬのか、必ず死ぬのだがそれでも生きている」(09.4.2.『劇的ポップテンZ』上演『観劇片々』本号所載)、と書かれている。
つまり、いずれにしてもこの二つの戯曲は、死を客観的に見て、生の意味を再確認しているような意図なのであろう。
『家を出た』のシリアスな表現に対して、この『ベリー・メリーゴーランド』は、笑劇的な表現という大きな差異があることは面白い。