演 目
魔 法
観劇日時/09.3.18.
劇団名/劇団TPS
公演回数/第28回
作・演出/弦巻啓太 照明/相馬寛之 音響/大江芳樹
美術/高村由紀子 衣装/佐々木青 宣伝美術/若林瑞沙
舞台スタッフ/TPS劇団員 制作/阿部雅子・横山勝俊 
ディレクター/斎藤歩 プロデューサー/平田修二
劇場名/シアターZOO

本能的自己防衛についての寓話劇

 夫(=岡本朋謙)のことを分らなくなった妻(=中川原しをり)がいる。と言っても、夫の自分に対する感情が分らなくなったとかいう愛情関係ではなく、文字通り自分の夫であることを認識できなくなったということである。
と、言っても昨今世情を賑わすいわゆる「認知症」に疾患したわけじゃない。精神の病という設定だが、現実にはほとんどあり得ないと思われる設定だから、これは何らかのメタファーであろう。
二人の怪しい医者(=原子千穂子・木村洋次)や、姉夫婦(=佐藤健一・橋本久美子)たちが、お為ごかし風の治療や看護をするが、さっぱり良くならない。
彼女はなぜ夫の関する部分だけの記憶を失ったのか? 錯乱を演じる妻の本意とは何の象徴なのか? 何を意味するのか?
妻と別れて再婚を迫る愛人(=高子未来)や、自分こそ妻だと名乗る隣人の女(=深澤愛)、これも一種の確信犯的・狂信的記憶喪失者だが、それらの女たちが現れて大騒動になる。
おそらく自分に都合の良い忘れ方というのは一つの自己防衛の手段であり、これは個人の範囲に留まらず、すべての局面で「記憶にございません」という風潮への揶揄であり、さらに曖昧に見過ごす周囲への警告とも受け取れる。
魔法使い(=細木美穂)が狂言回しのように出没するが、この意味が良く分らない。童話的・寓話的な枠組みを作る装置なのか?
装置といえば、舞台装置は、まるで大きな積み木を並べたような形と色であり、これも童話的処置を意図したものなのか?
前半は、その意図にふさわしく非現実的な大振りで喧騒の展開だが、後半になってぐっとリアリズムになるとやや退屈する。
そしてラストに向かって愛人や隣人が活躍する場面で、また一転、喧騒のシーンが続いて夫の他人事みたいな台詞で幕となる。
喜劇としてはうまい着眼なのだが、乗り切れないもどかしさを感じるのは何故だろう?