演 目
屋 根
観劇日時/09.2.22.
劇団名/富良野GROUP 公演形態/宝くじ文化公演
作・演出/倉本聰 出演/富良野GROUP
劇場名/美唄市民会館

演劇の表現法

 大正12年、富良野の山の森の中に、一組の若夫婦が住み着いた。10人の子宝に恵まれたが、長兄と次兄が戦死、徴兵を拒んで自殺した三男、都会へ出た四男、地元で父の跡を継いだ五男は積極営農で時代の波に乗ったが、借財が膨れた挙句に結局年老いた両親をも巻き込んで夜逃げをする。
それでも善良な両親は、時代の流れだからとすべてを受け入れて心血注いだ開拓地を離れる。不思議なのは後の5人の女の子たちの消息がはっきりと分らないことだ。おそらくその子たちは嫁にいったからその消息は割愛したのだろうか。その逆に後を継いだ五男の嫁はかなり克明に描かれる。
苦労した割には恵まれない明治人気質な両親の一代記だが、ドラマというよりはエピソードの積み重ねの絵巻物のような構造だ。
若い頃、近くのタコ部屋(人間性を無視し金で縛られた強制労働者の監禁施設)を脱走した労務者を助ける挿話があるが、それから70年後、年老いた夫婦の元に功なり名を遂げたその時の労務者が尋ねてくる。
夜逃げ準備のドサクサで応対もままならぬ二人の元を、お礼の箱を置いてひっそりと立ち去る往時の労務者。気が付いて箱の蓋を開く二人。ここで観客はある程度の金銭が出てくるだろうと期待する。だが借財は一億五千万円……
中から出てきたのは、彫刻家として成功した彼が、金銭には換えられない真心として精魂込めて刻んだ、若い日の夫の彫像であった。僕はここに初めて作者のメッセージを受け取った。そうなのだ、台詞じゃないのだった。
様々な文明批評の台詞が続出するが、演劇は論文や講演じゃないのだ。登場人物たちの心の葛藤なのだ。このシーンでそれを感じられなかったら、この舞台は俳優たちの見事な演技力を堪能する講演会でしかなかっただろうと思う。
確かに演技は力強くリアリティに充ちて、演出というか構成も凝りに凝っていて見応えがある。だがスタッフは一切発表されず、キャストも出演者一覧はあるけれども、各役々の配役は発表されていない。これは何を意味するのか? 作者であり演出者の独裁なのか?
今回は珍しい体験をした。僕は演劇鑑賞では、前の客の後姿を見たくないとの思いで、なるべく前方の席でみることにしたいと常々思っている。自由席の場合は、最前列が理想で、指定席の場合も出来るだけ前方の席を探す。
今回は初めての劇場だし、事情で電車に乗り遅れた事もあり座席に座ったのが開演5分前であった。だから見回しても前方2/3くらいに空席は一席もなかった。
こんな後方の席でみるのは、おそらく初めてではなかろうか? 同じ料金でこの差は了解できないが、この位置で観ると、表情は全く見えないし出演者も分らない。なじみの役者だと声と立ち居振る舞いで想像はつくけど、自信は持てない。
そこで思い出すのは、09年1月18日付の北海道新聞、「対論・大ホール建設の是非」である。一方の札幌市文化芸術基本計画検討委員長の竹津宣男氏が「夢見せる場、豪華さ必要」というコンセプトで未来志向の論に対して、イナダ組のイナダ氏は「中小の公演うける時代」というコンセプトで、演劇はステージ近くで観た方が良いと論じている。
これは結局、音楽と演劇というジャンル論になっている部分で噛み合わない点もあるが、演劇に関してはイナダ氏が正論だということは今回身をもって実感した。
さて出演者の配役は不明だけれど、名前だけは記しておく。
久保隆徳・森上千絵・平野勇樹・熊耳宏之・高橋史子・水津聡・東誠一郎・石川慶太・大山茂樹・紺屋梓・
金井修・ほか富良野GROUP