演 目
炎天下くらいハレとケ
観劇日時/09.2.19.
劇団名/AND
公演回数/プレミアムストーヴリーグシリーズ2009演劇公演
シアターZOO提携公演
作・演出/亀井健 照明/上村範康 音響/大津充敬 宣伝美術/山田マサル
宣伝・舞台写真/小林沙亨 
主催/北海道演劇財団 NPO法人TPSくらぶ
劇場名/シアターZOO

自己満足の表現

 「(略)傲慢なまでの自己主張、そして日々あくこともなくくりかえす大衆との対話……いやいや詩人と時代の結びつきとは、時代の反映者たることではない。詩人の役割とは時代の見えない部分と結びつくことだ。真の時代を発見することだといってもいい(略)」(清水邦夫『ぼくらが非情の大河をくだる時』)
この舞台は、この清水邦夫戯曲の台詞を現実化したような一種の詩劇を目指したといえようか? だが詩と演劇には接点があると同時に相容れない要素も厳として存在する。
それは演劇の表現の演劇たらしめる要素が詩と違うということである。
さて、身体の一部が虫と化した女が殺される。発見者の父が生前関わっていた三人の男の存在から犯人探しを始める。
当日パンフによると、テロとセックスがミステリーを産むというようなテイストの物語であり、時代を象徴させたある種のメタフアーが横溢しているというか、そこを狙って描かれた戯曲であろうと想像される。
だが残念ながら目論みは大きく外れた。その第一は物語の展開が難解であるということ。詩は必ずしも分りやすくはない。どころか往々にして難解である。しかし演劇ではもっと分りやすい物語の展開が必要であった。難解さは物語の裏にある含意にこそあるべきである。
第二は演技表現が抽象的であること。それも恣意的で自己満足的な演技であり、計算された客観性抽象性が感じられ難い。従って観ていると白けるばかりなのだ。確かに難しい表現に取り組んだとは思う。
だが総じて、何か高みに立って、少し照れながら自己主張をしているいやらしさが見えて白けるのだった。
それにもう一つ、舞台装置のもの言いたげな過剰装飾にどんな意味があるのかそれを推し量るのには苦労したが、結局意味不明に終わった。