演 目
他人(ひと)の手
観劇日時/09.2.18.
劇団名/Tjeater・ラグ・203
公演回数/Wednesday Theater Vol.2
作・演出/村松幹男
劇場名/ラグリグラ劇場

己にとっての真実とは?

 内向的で暗く寂しい若い女(=久保田さゆり)がいる。彼女は自分の存在意義が分らない。小さな短大を卒業して小さな縫製工場の女工として誠実に仕事をしながら小さなミスを詰問されて屈託の日々である。
昼食時には近所の雑居ビルの屋上で鳩に餌をやりながら日向ぼっこをするのが小さなひと時なんだけど、それでも下を覗き込むと行き来する舗道の人々の中にポッカリと真っ黒な穴が開いていてその中に吸い込まれるような気分になる。
彼女の貧しいアパートの押入れの中に、男の腐乱死体が発見され、それは彼女の恋人(=柳川友希)だった。当然、最重要容疑者として彼女は担当刑事(=平井伸之)から強烈な尋問を受ける。
しかし彼女の心情と刑事の求める真実とはまったく噛み合わない。刑事はこの殺人事件の最重要容疑者である彼女が一刻も早く自白することが彼にとっての唯一の真実であり、社会正義なのだ。
しかし彼女にとっての真実とは自分の今、生きていることの拠って立つ裏付けが何なのかを知り、それを証明することこそが彼女の真実なのだ。だから彼女は自分の生い立ちや彼との馴れ初めや、その後の成り行きを延々と語る。それが回想場面として挿入される。
自分を素直に表現できない彼女の素質、それを愛したはずなのに逆に信じ切れなかった彼の真実……。行き違った愛の真実とは何だったのか?
男の世俗的性向が分って彼女の濡れ衣が分るラストはちょっと安易だが、女にとっての救いはあるのか?
劇中、何度か入る白衣の研究者風の女(=久保田さゆり)が、人間の手の機能について哲学的考察を語るのだが、これは主人公の女のもう一つの内面を表わしているのだろうか?
ラストに到って即物的な男の手の温もりだけが彼女にとっての真実であるという意図は判るけれども、演劇としては説明的過ぎる感じがする。
これは8年前に書かれた村松戯曲の第2作だそうだが、第一作の『腐食』と並んで、村松戯曲の典型的な原型とも言え、小物語でありながら大物語を示唆する哲学的主題を含んだ物語であった。
観客の感想に、「最初の方を観れば結末が容易に想像できる」というのがあったそうだが、それは逆に村松戯曲の典型を示す根拠とも言えるのではなかろうか? ちなみに僕はずいぶん村松戯曲を観ているつもりだが、そこまで想像はできなかったのであった。