演 目
なよたけ
観劇日時/09年1月7日
劇団名/X(カイ)レパートリー劇場
作/加藤道夫 構成・演出/山本健翔 美術/三谷昇
音楽/土井啓輔 衣装/カナイヒロミ 照明/清水義幸
音響/越川徹郎 舞台監督/小川信濃
美術助手/江連亜花里 衣装助手/有島由生
照明オペレーター/大野耕治 
演出助手/石原燃・上原英司・小俣慎太郎
主催・企画・制作/シアターX(カイ)
プロデューサー/上田美佐子 総括/大久保喬
制作/家入知子・森下昌子・斉藤紀子・三村正次
技術/西村竜也
劇場名/東京・両国・シアターX(カイ)

時代の変化

 文学座の初演を観たのは、おそらく20歳前後つまり半世紀も前の話だ。当時はまだ今ほどそんなに沢山の芝居を観ていたわけではなかった。
だがこの芝居を観た僕は大きな衝撃を受けた。作者の加藤道夫は、死をも覚悟するべき混迷を極める戦争の現場へ間もなく赴かなければならない時であった。
彼はその生存証明としてこの戯曲を書いたのであった。だからこの主題は、彼の遺書であったのだと言われている。
平安時代の学生であった石ノ上ノ文麿呂(=高橋和久)は、その直情径行ゆえに疎んじられて格下の学校へ転校させられ、その父・綾麻呂(=世古陽丸)も上司・大伴ノ御行(=広瀬彰勇)の讒言にあって東国へ左遷される。
文麻呂の親友・清原ノ秀臣(=北川能功)は、竹薮の中で竹細工を営む讃岐ノ造麻呂(=塚本一郎)の娘・「なよたけ」(=志村彩佳)の清純な美しさに熱烈な恋をしていた。一方、権力者・大伴ノ御行は「なよたけ」に横恋慕していた。
友・秀臣と「なよたけ」を護り、御行を失脚させる絶好の機会だと張り切る文麿呂……
だが、世俗に負けた秀臣ともう一人の友人・小野ノ連(=佐藤学二)は、「なよたけ」から離れていく。逆に文麿呂は「なよたけ」に惹かれて行く……
その後の経過は、彼の純粋な魂の記録とでも言おうか……ひたすら狂気のごとく純粋の愛を求め、穢れたもの、平安時代の腐敗した社会を弾劾する。
文麻呂「(前略)都の人達がどんなに汚れ切ってゐるか。表面ばかり華やかな文化に飾られ、優雅な装いに塗りかくされてはゐるけれど、人間達はみな我利私欲に惑ってゐる……(後略)」
綾麻呂「(前略)都の奴らと來たら、全く輕佻浮薄だ。あのやうな惰弱な逸樂に時を忘れて、外ならぬ己が所業で、このやまとの國の尊嚴を傷け損ねてゐることに氣がつかぬのぢゃ(中略)都の連中が榮華に耽ってゐる間に、地方の政治は名状しがたいまでに紊亂してしまった!(略)」(引用の文中には、本字体が使えなかった文字があります)
ついに彼は、あのひたすら愛した「なよたけ」すら信じることが出来ず、幻想として想いの彼方へ押し出した。
つまり文麻呂の中では死に到った「なよたけ」との完成しなかった愛を求める過程によって彼は、「詩人の役割とは時代の見えない部分と結びつくことだ。真の時代を発見することだ。(清水邦夫『ぼくらが非情の大河を下るとき』) という意味での、時代の預言者である詩人として再び生きるのだ。
当時これを観て、世の中の、人と人との関係、狂気の純愛にただ圧倒されて、おそらく生涯で観るであろう演劇のベストワンになるのではないかという予感さえした。
その後ずっとその気持ちは続いたが、それから何年か経ったころ、当時の菊五郎劇団が「なよたけ抄」として上演した。それを観た僕は落胆した。
形こそは綺麗で整ってはいたが、逆に形を綺麗に作るだけで内実が薄く、テンポが遅いので眠くなるだけで、こんな芝居ではなかったはずだと思い悩んだ。
今、この舞台が観られるというのは喜んでいいのか危惧を感じるのか、複雑な感慨がある。あれ以来上演されたという話は聞かない。
また、いまこの物語を観るのはいささかの惧れがある。時代は極端に変化したのだ。現代に強くインパクトを与えることが可能なのか……。初演当時は混乱してはいるが、まだこの物語を受け入れる清新な世相があったのではないか……
この「シアターX」という劇場はまるで講堂のような空間で、舞台も客席も両サイドは舞台空間らしからぬ余分な装飾があって、袖のスペースがないから、その装飾がそのままむき出しで使っている。舞台床もフローリング貼りの汚れた薄茶色そのままで、いかにも講堂だ。
舞台前面の客席左右両サイドには、天井まで届く大きな本物の竹が十本ずつほど立っていて、それだけがそれらしい造りだが、あとは時代も場所も観客の想像に全面的に任されるのだが、かなり辛い。
衣装も一応それらしく作ってはいるが、履物が現代風であったり、特にコロスである群集の12人の上半身はそれらしいが下半身と履物は現代そのままである。
講堂の造りに合わせて中途半端な形にしたのかもしれないが、これならいっそ現代風にしてしまえば良かったのにと思ったら、ラストで文麿呂と綾麻呂が再会する場面では、なんと二人とも現代のカジュアルな衣装で登場したのだが、まるで違和感はなかった。そうなのだ、これは現代劇なのだ。思い切って現代の風俗と設定の中で演じた方がすっきりとしたかもしれないなどと考えていた。
長い原作をかなり縮めたのだが、それは却ってすっきりと判り易くした。それでも休憩を含めて2時間50分、しかし少しも長いとか退屈したとかは思わなかった。物語の力強さに感銘を深くされたのだった。