演 目
三月の5日間
観劇日時/08.8.24.
劇団名/チェルフィッチュ
作・演出/岡田利規 出演/山縣太一・山崎ルキノ・下西啓正・松枝耕平・足立智充・武田力・青柳いずみ
劇場名/コンカリーニョ

新しい表現の意味するもの

 全く何もない、いわゆる素舞台。背景に大きな一面の白い壁、上・下(かみしも・左右)に俳優が出入りするだけの隙間がある。開演時間になると一人の男が出て、非日常的な身体の動きで上半身を前に折り曲げる。観客はそれが前説のためのお辞儀だと思う。だがそれはこの芝居のプロローグの発端であり、芝居はすでに始まっているのだ。
そこへもう一人の男が現れ、この話はアメリカがイラクへの空爆を始めた2003年3月20日、東京六本木のライブハウスで偶然出会った若い男女のその日を中心とした5日間の行状を語るという構成になっている。
アメリカのイラク戦争のニュースを背景に、二人の男女とその友人たちとの交流を通じて、現代の若者たちの怠惰でその時限りの自堕落な生態を活写する。それは逆にいうと、世紀末的な世界の状況に蝕まれた若者たちの虚無感を表わしているとも言えるのかも知れない……
男5人と女2人が入り乱れて複数の人物を演じるというよりは、5日間ラブホテルに籠ってひたすら性行為に淫する二人の男女の行状を語るという構成である。だから舞台は常に2・3人の俳優が語るという構成で、俳優同士のやり取りも普通の劇的展開というよりも、友人の状況を別の友人に伝えるとでもいうような感じだ。
その表現方法が特異である。身体の動きが言葉と連動するという普通の動きではない。言葉と身体の動きが乖離しているような印象だ。というか自分の言葉を補強するためのこの人たち独自の身体の動かし方とでも言おうか。
そして台詞は台詞で独り言のように語りかけ、身体の動きはその台詞に関係なく勝手に奇妙な動きを動いているような感じだ。
これは何だろう。言っていることを言っている人が責任を持たないことの象徴なのだろうか? 普通何かを訴えるとき言葉の足りない部分をゼスチュアーで補おうとする。コミユニケションとは語り手と受け手の共通了解の上に成り立つわけだが、この表現はその基本を無視しているわけだ。
この表現は身体の動きは言葉の内容を補足するものではない。逆に受け取る側、この場面では観客の注意を散漫にさせるとか集中させないための逆の効果を持つ。そこを意識した表現なのだろうか?
話の内容は簡単だ。アメリカのイラクに対する空爆という恐ろしい現実に対して日本の若者は、それをどう感じたのかひたすら生産性のない行為に耽っている。それは現実からの逃避なのか、あるいは空爆という破壊行為に対して、生殖という生産行為で無意識に対抗しようとしているのか?
そういう状況を、ダラダラとした、とりとめのないような若者言葉で紡ぎ出し、身体の動きとの不思議な乖離という形で表現され、そしてそれらはすべて7人の男女による伝聞形の語りであり、対話になっていない独白のような言語によって展開される不思議で特異な世界である。
僕はこの集団の仕事を直接に観たことはなかったが、さまざまなメデァの情報である程度知っていたので、違和感はなかった。なるほどこういう風に表現されているのだという確認のような感じであった。
語られる言葉は、表現として洗練された言葉ではなく、いわば無駄の多いというか、むしろ無駄だらけの雑音のような会話だが、それがコミュニケーションを阻害している要因なのか、こういうコミュニケーションが現代なのか? それは分らない。むしろコミュニケーションを阻害しているようには感じられない。
ともかく現代社会の日常的な一面の現状と、世界の危機とが一つの時間帯に混沌と流れて来る独特の世界ではあったのだ。