演 目/ビデオ上映
・RICCACHAN  リカちゃん  ―ムラサキの雨降る夜空に消えた理科室―
・遊星天幕・百億光年漂流之段

鑑賞日時/08.5.31.
劇場名/ラグリグラ劇場

対称的で過激な芝居世界

 今から26年前、札幌で創立された『デパートメントシアターアレフ』は、8年間に17本の作品を上演し、すべてを作・演出して、わずか47歳で病没した故・萬年俊明氏を忍び、その中から残された二本のビデオの上映会が開かれた。
これが第一回で、以後遂次順番に上映会がひらかれるということだ。
前日に唐組の記録映画を観たばかりだったので、その影響やあの時代の空気も必ずあるだろうと思って、期待して観に行った。
当時はビデオ技術も未完成だから、おそらく画像も音声も鮮明度に欠けて観難いのではないかと危惧していた。
ところが期待以上に画像も音声もはっきりとしていて、上映前に主催者が、「内内のつもりだから酒でも飲みながらリラックスして楽しんでください」と挨拶したのにもかかわらず、満員の客席は普通の面白い舞台を観ているように集中して魅入っているのが感じられた。
確かに面白かった。映画『シアトリカル』でも感じたのだが、最近の舞台には珍しいエネルギーとロマンが横溢している。話は時間・空間を自由自在に飛び越え現実味がまるでないのだが、そこにはいわゆる「メタファー」としてのリアリティが厳として存在する。
最近の舞台でも、そういった表現があるにはあるのだが、僕の管見では、話にメタファーとしてのレアリティが少ないものが多い。唯一の例外は『劇団 新感線』であろうか。
さて二つの記録映像を仔細に観てみよう。まず『リカちゃん』は、過去の喪失であると思われる。失われた小学校の理科室を求めるかつての小学生たち。そしてそれを失わせたものは何かを象徴的に追求する。
前述した通り、時間と空間が錯綜するので、分かり難いのだが、当時大流行したリカちゃん人形と偽リカちゃんとを巡って入り乱れるかつての小学生たちとその家族や、ついには刑事や軍隊まで出動する。刑事でもあったが、いまやしがない安サラリーマンになった男の追憶という形で終幕を迎える約2時間は、淡白に慣れた僕にはいささか長く感じられたが、面白さを損なうものではなかった。
膨大な舞台装置と衣装・小道具を駆使して、悲哀に充ちた幻影のひと時を満喫したのであった。上演は87年3月である。
次に『遊星天幕 百億光年漂流の段』は『リカちゃん』と対称的に未来の虚無と言えよう。博物学者がスリラー小説で売り出したかと思うと、着流しの親分になったり、目まぐるしい変化である。
博物の資料収集は遠い未来への人類の義務としての伝達であるという視点と、遠い未来はアンドロイドが支配しているであろうという諦観。上演は89年10月。
そしてここにも「日本」という、一種の体制や権威が現れる。だから期せずして『リカちゃん』と『遊星天幕……』とは過去と未来とを対象させた好一対の作品であるともいえるのである。
しかし、そのどちらにも微かな虚無の匂いと焦慮感とを徐々に現わしてくるのが感じられる。
どちらにしても、一見現実味の薄い表現でありながら、わくわくさせるエンターテインメント性を強く打ち出し、しかも強烈なバックボーンを持った作品群であることが魅力の源泉であり、改めて唐十郎のいう「メタファーは何なのだ?」という、作品成立の基本を問い直させられたのであった。
出演者・スタッフには、当時の座長格で現在『シアター・ラグ・203 』を主宰する村松幹男を始め、僕の知らない大勢の人々の他、萬年俊明氏夫人・斉藤わこ(現・萬年和子)、そして現在、シアター・ラグの劇団員である平井伸之、湯澤みゆき(現・美寿々)、福村まり(現・慎里子)、たなかたまえ、そして僕の旭川・『劇団 河』時代の後輩、中公和誇の懐かしい名前もあった……(敬称を略しました)


■■5月の推薦舞台■■

今月もたくさんあります。

☆ 春の夜想曲         劇団 TPS

☆ Wielopole Wielopole     韓国ソウル 劇団 青波

☆ 西の人気男         北翔大学短期大学部 人間総合学科 舞台芸術系

☆ りんご            Theater・ラグ・203