演 目
映画/シアトリカル
鑑賞日時/08.5.30.
脚本・構成・監督・大島新 プロデューサー/於保佐由紀 製作/柏井信二・大島新 撮影/桜田仁
資料提供/劇団唐組 協力/十貫寺梅軒・他多数 製作・配給/いまじん・蒼玄社
出演/唐十郎・他 劇団唐組全員・大鶴美和子・大鶴美仁音・大鶴佐助
劇場名/シアターキノ

虚構の二時間

 最近、急激に人気が高い『劇団 唐組』の半年間をドキュメントで記録した大島新監督の最新作である。シアトリカルというのは「演劇的な」という意味であろう。
06年11月、新作『行商人ネモ』の戯曲完成から、稽古風景、そして劇団や唐十郎たちの動き、07年4月の大阪初演までの記録である。
大島新・監督の父親は大島渚であり、その大島渚は、唐十郎が売り出し中の40年前、『新宿泥棒日記』で唐十郎とその劇団を映画に撮ったという因縁がある。
映画のラストで、「この映画は、およそ7割のドキュメンタリー(現実)と、およそ2割のドラマ(虚構)で構成されている。残りの1割は虚実不明である」というテロップが出る。
しかし僕は映画の間中、この映画は100%が虚構ではないのか? と疑いながら観ていた。
たとえば、唐十郎は途轍もなく気まぐれであり、理不尽とも言える怒りが爆発する。それが天才の由縁なのだろうが、画面で見ると如何にも演出臭い。それを見守る劇団員たちも、その唐の気質を知っていてそのカリスマ性にわざと合わせている節がある。これは意地の悪い観方であろうか?
大島監督自身も「彼らは日常がシアトリカルなのだから逆説的には虚構シーンの方がよりドキュメンタリー的であり、被写体が自分を演じるという行為も含めた、ドキュメンタリー映画である」と書いている。(当日パンフレット所載)
そこには四つの虚構シーンが紹介されているが、それらは完全なシナリオ構成でドキュメンタリー風に描かれていている場面である。
それは、唐十郎が新人俳優に対して「俳優とは何か?」と問い、自身で示して見せる場面。二人の女優が、現在の心境や将来のことなどを話し合うシーン。
唐と大島が、俳優論を巡って論争し、劇団員たちが唐に加担したり仲介に入ったりするところ。大島が撮影終了に当たって唐に礼を言うと、唐が永遠の現役俳優宣言をする場面。
しかし、唐が俳優の実在を新人に身をもって見せる場面と最後の俳優宣言のシーンはハプニングらしいが、二人の女優の述懐の場面と、唐と大島の行き違いは、見ているときから如何にも演出臭いなとは思っていた。
唐十郎は、時に応じて何度もカメラ目線でニャッと笑うがその人懐っこい笑顔は一瞬であり、すぐ怖い表情に戻る。だからこの笑顔も虚構と感じられるのだ。
稽古場は信じられないくらい狭い空間であり、道具類はダンボールで造られている。それらも如何にも虚構臭いというか虚構を演じていると言おうか、逆に暖かい郷愁のようなものも感じられる。演じられる戯曲も最近では流行らない、極端にロマンチックな現実感のまるでないような表現であり、僕らには懐かしいのだが、よく最近の若者が付いていけるなと感心する。
そういえば唐十郎は、演技者への注文で「それは何のメタファーなのだ」と問い詰める場面が印象的であった。つまり現実そのものが芝居ではないのだ。演じているのはすべて何かの現実の比喩であり象徴なのだ。それをエンターテインメントとして表現するのが芝居であり、演劇とはそういうものだという唐十郎の信念の核心を象徴するシーンであった。
札幌の『アレフ』や『魴?舎』などの時代のイメージが共通する感覚であろうか?
この後で観る予定の「アレフ・ディズ」というかつての『劇団アレフ』の記録映画の鑑賞が楽しみに待たれると同時に、またこういう舞台が観たくなる期待が膨らみ、若い人たちにもぜひこういう芝居作りをして欲しいと待ち望むのだ。