演 目
流星に捧げる
観劇日時/08.4.20.
劇団名/演劇制作体「鈴木喜三夫+芝居の仲間」
公演回数/ファイナル 第十五回公演
作/山田太一 演出/鈴木喜三夫
舞台装置/高田久男 照明/鈴木静悟 
音響効果/西野輝明・今野史尚 
音楽/井後賀子(オーボエ) 衣装/木村和美 
道具・衣装/大内絵美子・榎本玲子・杉本明美
舞台監督/戸塚直人 舞監助手/畠本哲郎
演出助手/藤原祐子・大内絵美子・榎本玲子・杉本明美
制作/木無喜太郎・高野吟子
レイアウト/早坂正男 キャスト写真/高橋克巳

人生の最後をどうするか?

 心ならずもの人生を送って、中年から老年に達した4人の人たち、旧家の四代目で自称「役に立たない研究に一生を過ごした」という車椅子の毛利信行(=舛井正博)、零細企業の苦しい社長・井原尚彦(=澤口謙)、保険屋さんとして30年一筋の藤井彩(=竹江維子)、そして一人暮らしで身障者の毛利に仕えて28年という家政婦の落合時子(=斎藤和子)。
これからの人生をどうするかに直面して戸惑っている若者が四人、怪しいボランテァの高萩千佳(=小沼なつき)、工務店の営業マン・鈴木さんご(=仲鉢勇一)、会社を退職したいOL・古矢久美(新井田琴江)、そしてフリーターの川田忠弘(=下家弘)が、世田谷にある毛利のレトロな豪邸に集まる。
きっかけは、毛利が「世田谷の雑談」というインターネット・サイトに書いた「動かない風見鶏、車椅子の老人、一人暮らし」という一行に、動かない風見鶏を目当てに様々な思惑を持った六人が尋ねてきたというわけだ。
実はこの家の主人・毛利は初期の認知症だったのだ。だんだんにそのことが分ってくるにつれて、それぞれの感じ方が変っていく。
「落語は性善説であり、その現れは笑いである。」という平岡正明の『シュルレアリスム宣言』(白夜書房08年2月刊)の言葉を借りるなら、この舞台には、悪意の人間は居ない。登場人物は皆、それぞれ多少の何かを求めて様々な行動をすることが落語的展開になっているのだ。
詐欺まがいの出資を求めて全権委任され、逆に困惑する気弱な社長・井原。保険業をあきらめ易占いを職にしようと、雰囲気の良いこの家の応接室を無料で使わせて貰おうとする藤井。毛利を守ろうとして逆に毛利の逆鱗に触れ追い出される家政婦の落合。
使っていない二階の部屋を借りて、勝手放題の鈴木・古矢・川田の若者たち。高萩は毛利の世話をしているが、腹の中はどうなのか、悪い噂が立つ。
徐々に毛利の症状は進行するが、一同は付かず離れずそれぞれの行動を続けながら、見守るように事態は推移する。
ある日、毛利は突然自分の腕を切りつけて自傷する。集まって混乱する一同……現実が分らなくなった毛利は、一人一人を亡くなった息子や妻や愛人たちと思い込む。困惑しながらもそれぞれの役割を演じる人々。
最後は車椅子から立ち上がった毛利が次々と過去の人々の名前を叫びながら抱きついていく毛利……それぞれの役割を演技しながら応じていく一同……
この場面、照明が平板にアップして、動かない風見鶏が狂気のように回りだす。つまりこの場面は現実と言うよりは幻想として表現されているようだが、僕は現実として観ていた。
もしかして毛利は、実は立てたのにあえて車椅子に乗っていたのかも知れないし、皆が合わせてくれるのが嬉しくて演技をしていたのかも知れない。そう考えれば幻想は現実でもあるとも思われる。
それはどちらでも良い、要するに人の暖かさが強く感じられる。特に印象的だったのはほとんど喋らない古矢久美が、陰影を背負った現代っ子を強く感じさせながら、一同に背を向けない存在に一種の感銘を受けたのだった。

先日の『棲家』に続いて、老年を考える芝居を二つ観て、老齢に達した自分の位置とか環境とか、感慨深いものがあったのだ……