演 目
腐 食
観劇日時/08.2.27.
劇団名/Theater・ラグ・203
公演回数/水曜劇場 第1弾 再演
作・演出・出演/村松幹男
劇場/ラグリグラ劇場

力技の演技

 再演ということだが、残念ながら初演は観ていない。二演目の鈴木亮介、三演目の田村一樹、そして四演目のまた鈴木亮介、そして今回五演目となる、作・演出の村松幹男が出演する一人芝居だ。その都度僕はさまざまな感想を持った。この芝居が一人芝居の分類を考えるきっかけになったほどだ。それだけ僕にとっては重要な舞台である。
こんど一番印象的だったのは、田村と二度目の鈴木と違って、ほとんど定位置を動かないで演じたことだ。ということは僕が考える第一のパターン、つまり登場人物の主観的述懐だけとなって、劇的な葛藤が生じにくいと懸念される。
田村も四演目の鈴木もそれを避けて第3のパターンである一人何役をも演じて劇的葛藤を見せる工夫をしていたと思われる。そしてそれは成功したと感じていた。
ところがほとんど定位置を動かない村松は、一種の力技でその懸念を吹き飛ばした。確かに劇的葛藤は生まれにくいのだが、それを感じさせる隙もなく物語に惹きこまれる。それは一体何だろうか? と不思議な思いが湧き上がる。やっぱり力技としか言いようがない……
そこで話の内容の説得力である。表現としては力技になり対人関係で起きる葛藤の表現は足りないような作りにはなってはいるけれども、この死刑囚の内実の訴求力はむしろ強くなっている。それが力技の由縁だろうか?
彼は自分の存在の正当性を論理的に主張する。なぜ多数の殺人を犯したのか、それは一見正当性のあるように理論武装されている。相手をする教誨師もたじたじの論理だ。その教誨師にも論破できない殺人が持っている論理、それに反論できない普通人の弱身が垣間見える。
死刑囚はそこを徹底的に糾弾する。だが結局、彼の論理は自身に都合のよい論理であったのか? そう決めつけてしまって解決するのか? 重い主題を投げ出しながらラストでは「俺は救われるのだろうか?」という永遠のクェッションでフエイドアウトして、暗い思いを残して終わる。
今までの何回かの『腐食』上演で初めて感じた重さであった……。さすが作者・村松の真髄発揮なのか、または僕がやっと追いついたのか……。またはまだ未可解なのか? 重い気持ちで劇場を後にする。