演 目
赤 鬼
観劇日時/07.10.7 18時
劇団名/劇団 動物園(北見)
作/野田秀樹 演出/松本大悟 
音響/岡利昭 照明/中村聡 効果/山口香織
装置/阿部浩二 衣装/LINK 
バックアップスタッフ/阿部しのぶ・中田知子・広島京・大川まゆ子・武田健志・秋山利恵

エネルギッシュな様式化

 諸外国でも上演された著名な作品だが、野田秀樹の戯曲としては、とても分かり易い寓話性にとんだというか、むしろ寓話そのものだ。
ある浜辺に異国人が流れ着く。もともと「鬼」とは漂流して居着いた異人種であるとも言われる。漁師で知能に遅れのある男(=松本大悟)と、その妹(=佐藤菜美)は純粋で、赤鬼(=廣部公敏)とコンタクトを取ろうと心を寄せる。これだけでほとんど総てが語られてしまいそうな話で、あとは物語の紆余曲折と表現法の問題だ。
それを取り巻く様々な人々。(=岡歌織)。驚いたことに、この大勢の登場人物を全部この4人で演じ分けるのだ。
さて、この分かり易い寓話劇をリアリズムで表現したらどうなるか? おそらくそれを嫌って象徴的でエネルギシュな様式化という形をとったのであろうか?
全編、全身を使って動き回る。特に両手を使って振り回すような仕草と、人物たちが絡んで踊るような動きの連続は、下手すると無駄な動きに見えて白けることが普通だ。だがこの集団のこのような動きは少しも不自然ではなく、逆に説得力がある。その動きが意味のあるように見えてくるのだ。
アフタートークで、演出家はその辺のことを、ある観客から「手話だ」と言われたと否定的な言い方をしていたが、それでもやっているということは自信があるのだろうし、僕はユニークな表現法として面白いと思った。少なくても白けなかったのは事実だ。
舞台は全面を真っ白に仕上げた。壁も天井も床も全部真っ白だ。そして1シーンだけ洞窟の場面のみブラックライトを使って赤鬼の故郷願望の幻想的な壁画を浮き出させる。それは鮮やかではあったが、いささかちゃちな感じでもあった。
面白いのは赤鬼が発する言語がどこの言葉でもない異常な言語だが、この異常な言葉の長台詞をよく覚えたなと思われるほど異常感覚だったが、途中で何となく聞いたような気がしてきた。
アフタートークで、元の戯曲では英語なのを日本語に翻訳してさらにそれを逆さ言葉に直したそうだ。だが、たとえば「うみ」を「みう」とすると分かってしまう可能性が高いので、あえて「わたつみ」と言い換え「みつたわ」とするという凝りよう。楽しんでいるという感じだ。

         ☆

一つの舞台が終わるたびに、前述した大久保真氏の司会でゲストの鈴江俊郎氏とその芝居の演出者の鼎談が行われた。狭い範囲に閉じこもらず、一定の見識を持つ他地の演劇専門家に批評をしてもらうという姿勢は好感がもてる。
観客も参加できるので、僕は毎回全部聞くようにしているが、なぜか表現法の技術的な問題だけが強調されるような気がする。だがそれは幕内の話で、観客はリアルであるかないかの単純な話で、リアルでなければ観ないだけだ。
だから僕は質問や感想を求められると、テーマやメッセージに拘る。僕が芝居を観るのはそのためだからだ。
さて3編全体を通して感じたのは、それぞれが本当に自分たちのやりたいことだけをやり通しているという純粋さだ。それはアフタートークでゲストの鈴江俊郎氏も、職業的な劇団ではとうてい出来ない羨ましい演劇だと言っていた。
もう一つ僕が気になったのは、三つとも既成で完成度の高い戯曲を使っていることだ。彼らのポリシーからいうとそれは問題以外のことかもしれないが、オリジナルの戯曲が出来ないかというのも問題として提供したいと思うのだ。