第五回 道東小劇場演劇祭
07年10月6・7日/アトリエ動物園(北見市4条5丁目)

帯広の「劇団演研」、釧路の「劇団北芸」、そして北見の「劇団動物園」という小劇場志向の三劇団が、道東小劇場ネットワークというものを組織し交流する中で誕生したのが「道東小劇場演劇祭」でありそれが第5回目を迎え、今秋は初めて北見で開催された。
今年の会場は北見の繁華街をやや外れた住宅地に接する辺りにある閉店した商店を改装した劇場で、去年「劇団動物園」の拠点劇場としてオープンした。受け入れ態勢が出来たことによって初めて北見で開催されたとのことである。
間口6bくらい奥行きは4bくらいの本当に小さなミニ舞台に対して、客席は本格的に作られた、おそらく60人規模の素敵な劇場で、ここは商店だったからタッパの高いのがいい。
照明は予算の関係で簡易な設備で小さくて少ない器具を使っているが、思ったより本格的に感じられるのは舞台が小さいからかもしれない。


演 目
隣にいても一人
観劇日時/07.10.6 19時
劇団名/劇団 演研(帯広)
作/平田オリザ 演出/片寄晴則 
照明/神山喜仁 効果/宇佐美亮 小道具/金田恵美
舞台監督/片寄晴則 舞監助手/村上祐子・野口利香


メタファーを探る

 この戯曲は、劇団演研と10年ほど前から親交のある劇作家で演出家の平田オリザが、アマチュァの演研のために演研の役者に当て書きで書下ろし、5年間の独占上演権を持つという珍しいケースの戯曲だ。
初演の役者が一人、交通事故で亡くなったためにその後、平田オリザの「劇団青年団」から客演を迎えての上演を続けたが、今回は「演研」主宰・演出者である片寄晴則の高校時代の後輩にあたる東京の俳優で演出家でもある龍昇氏を客演に迎えた。
ある男(=富永浩至)は、兄(=龍昇)の妻(=坪井志展)の妹(=上村裕子)、つまり男にとっては義理の妹にもなる女性とある朝、起きてみたら夫婦になっていたという話である。
いわゆる肉体的に結ばれたとかいう下世話な話ではなく、この男女がある朝、なぜか心理的に夫婦でなければならない関係を自覚せざるを得なかったという、形而上的で不思議な話である。
もちろん兄夫婦は、結婚したいのなら普通に報告すれば問題ないのに、冗談でからかっているのだろうと言ってまともに取り合わない。常識人として当然の判断だ。
しかもこの兄夫婦は現在離婚に向けて話し合い中の間柄なのだ。しかし必ずしも険悪な関係ではない。むしろなぜ離婚しなければならないのか分からないくらい一見和気藹々としている。
当然、兄夫婦と弟たち四人の会話は噛み合わない。この立場の「ずれ」と、兄の訳知り顔の早とちりが客席の笑いを巻き起こす。しかし問題は、この男と女の無意識の了解とは何のメタファーか? ということにあるのではないのか。
結婚とは、その人にとって人生にある一定の枠を嵌めるという重大な岐路であろう。それがある日突然自分でも意識しないうちに自分の中に芽生えて、それを既定のこととして受け入れることの不条理であろう。
その暗喩は、観客それぞれが自分流に解釈して納得すればいいことなんだが、僕はこれを政治とみた。政治が悪政になっていくのは決して無意識ではないはずだが、現実には深い考えもなくいわば無意識な感覚が作用しているのではないのか? と問われているような気がする。しかも男は作家志望のインテリであり、女は看護師(?)というインテリなのだ。
アフタートークは、ゲストの劇作家・演出家・俳優そして「劇団 八時半」の主宰者である岸田戯曲賞の鈴江俊郎氏と、この舞台を演出した片寄氏、そして司会が、「NPO法人豊水創成文化まちづくり倶楽部」代表の大久保真氏の鼎談だったが、話題が表現のリアリティという技術的なことばかりだったので、終りにこのメタファーのことについて聞いてみた。さまざまな解釈に耐え得る戯曲が良い戯曲と言えるからだ。
さすがに鈴江氏は「自分は国旗・国歌の問題かもしれない」とほぼ僕と同じ見解を示した。余談だが、この演劇祭はいつも先進地から知名な劇作家・演出家などを招待して自分たちの舞台の客観的な評価を確かめるという作業をしている。
「演研」はさすがに何十回と、この戯曲の上演を重ねているので、危なげなくリアリティのある舞台を作ったと思う。今回の龍昇の参加は、この兄貴の日常的な雰囲気が巧くマッチして全体の空気を馴染み易くしたのは大成功であった。