演 目
業 曝
観劇日時/07.8.29
工藤丈輝 舞踏 北海道ツアー
劇場/アートホール東洲館

強靭な肉体が語る宿命の物語

 業とは何か? 曝すとはどういうことか? 
舞台は、開幕冒頭、正面奥の祭壇のような場所に、誰かが潜んでいるような気配……。だらりとした和服のお引き摺りの女性(=小田吏恵・特別出演)が、下手袖幕からゆったりと現れ、その祭壇に向かってローソクを灯す。この女がすでにして何かの業を持つ存在に感じられる。
女が去ると、その祭壇のような壁面の窪みにいた弊衣蓬髪の男は、あたりを窺うように何度か出かかっては引っ込み、やがて腰を落とした格好でオズオズと周りを見回しながら出てくる。
眼光鋭く、寄り目になったり白眼になったり突然泣き伏したり、そのままの姿勢でフワリと飛び上がるかと思うと音もなく着地する。
この現実離れした鳥のような着地を目撃した瞬間に、彼は亡霊だと了解する。ローソクに迎えられて祭壇から出てきたことといい、この衣装といいこの狂気といい、彼はおそらくこの現世に怨念を残して死に切れない魂の情念なのだ。
彷徨う男が去ると、金属を無秩序に乱打し擦るような不快な音の氾濫の中に、全裸の男が登場する。彼は亡霊の生前の姿であろうか。
まるでロボットのような動きは、非人間的な音響に象徴される近代文明に苛まれつつも生きていかざるを得ない男の苦しみなのか?
舞台の一方からとつぜん光が差す。男が振りむくと一瞬にして光は消え、別の方向からまた光が差す。その方向へ振り向くとその光は消え、そのむなしい追いかけっこが延々と繰り返される。一瞬の光明と肩透かしの連続……
男の肌のベトベトの汗、息遣いの荒さに業の哀しい営みが観る者に迫る。普通、こんな場合の汗や息の乱れは技術的な未熟だと思われるのだが……今は気にならない。
 退場間際、振り返って男が残すニヤリと笑う表情は絶望の果ての狂気なのか?
シーンが変ると、幾分柔らかい音楽が忍び入り、真っ赤なドレスの女が登場する。もちろん工藤丈輝が演じる白塗りの女の存在は、男にとって唯一の生きていることの悦楽の対象であった。
仰向けに寝っ転がって蠢き、四肢を挙げて上下運動を熱く繰り返す女の妖態は、セックスシーン……男にとっての一場の夢と幻……
だが突然、女は鬼女と化す。そして写楽が描くところの役者絵の謎の表情を残し、一人の女(=小田吏恵)が何事もなかったように通り過ぎて男の夢幻の時は終わった。
三たび登場した男にはおそらく何も無い。あるのは成仏しきれない無念の悔悟の思いだけであろうか? 客席に飛び降り舞台端の箱に飛び乗り、舞台狭しと荒れ狂う。そして客席後方へと静かに諦観の退場は、おそらく開幕冒頭へと廻って帰っていく。果てしない悲劇の連鎖を垣間見せて……
鍛え抜かれた男の肉体が表現した一人の人間の業、そしてそれは多くの人間の業の象徴でもあろうが、さて「業」とは何であろうか?
「三業」とは、「心・言葉・身体が表わす人間の善悪の行為である」とはどんな辞書にも書いてある。だがわれわれは普通、悪の行いの結果という印象が強い。
そして「業を曝す」とは「前世における無意識の悪行によって、この世に恥を曝すこと」というのも、また普通の辞書に書いてある。
この「業」という言葉に「宿命」というものを感じる。
「宿命」と「運命」とは微妙に異なる。「宿命」には宇宙・人類・国家など間口の大きさ、従って時間のスケールの長さが感じられ、人間の力ではどうしようもないという気がするが、一方「運命」は、個人・家族・集団などの間口の狭さ、従って時間のスケールに短さが感じられ、意志によって変更されうる可能性が予想される。
この『業曝』は、「宿命」の哀しさとしての「悲劇」が感じられる。「悲劇」とは宿命の表現であり、対極としての「喜劇」とは、人間と世界とを客観視して見出された歪みの表現であるという私の規定による。
したがって、この『業曝』は「悲劇」であり、個人とその人生とを表現するという狭い間口と短いスパンを扱いながら、普遍的な人間の悲劇としての存在を表現したという意味では、間口の広いスパンの長い「宿命」の「悲劇」を見せてくれたというべきであろう。本物の「悲劇」を観たのであった。

今月の推薦舞台

☆ 遭難、…… e-bblood
☆ 円生と志ん生 …… こまつ座
☆ 業曝 …… 工藤丈輝 舞踏

   今月も三つ、挙げなければならないか……
傾向が違うものを、一つの基準では中々選べない。