演 目
眠れ、巴里
観劇日時/07.7.30
劇団/東京乾電池
公演回数/月末劇場
脚本/竹内銃一郎 演出/柄本明 音響/原島正治 照明/高橋庸子 舞台美術/星健典 
舞台監督/山地健仁 協力/ジ・アクトコネクション 制作/東京乾電池
劇場/新宿ゴールデン街劇場

思慮浅い可憐な女の喜劇

 東京に知らないうちに幾つかの小劇場が出来ていた。例えば、下北沢の『「劇」小劇場』の向かいに『楽園』、そして新宿ゴールデン街の一廓の『ゴールデン街劇場』だ。
まるで昔の街々にあった映画館のように、ライヴということでは、さらにそのまた昔の寄席のような場所だろうか?
今日は、その『ゴールデン街劇場』で、竹内銃一郎・作、柄本明・演出、東京乾電池の若手俳優が四つのチームを作り7ステージを交替出演。時間の都合でそのうちの一つを観る。
この新しいミニ劇場は、いわゆる文化人と言われる人たちの集まる、古臭いゴミゴミとした100m四方くらいの中に縦横何本かの細い路地に面して、木造の100軒ほどの小さな飲食店群で成り立っているゴールデン街の一角に、新しく建った3階建てのミニビルの中にある。その半地下部分と一階部分が劇場だ。地下も、2階・3階も飲食店だ。
その街に集まるのは、絵描きやミュージシャンや詩人・小説家・評論家・ジャーナリスト、そしてステージパフォーマンサー、もちろんその中には演劇人も含めて大勢が屯する。
劇場自体が狭いから受付は劇場入口の路上にテーブルを出してやっている。幸い今日は午後から降り出した小雨が、さっき止んでこの時期としては涼しいくらいだ。
内部は、幅6mくらい、舞台の奥行きは4mくらいか?
下手(しもて・向かって左側)の奥にドアー一枚の出入り口があるだけ、客席はベンチ式の長椅子が7人×4段=28人、客席後方の調光と音響操作のスペース横に、4人×3段=12人で合計40人。半地下にしたせいか、さすがにタッパは高い。
さて舞台、一面に布団のような物が敷き詰められ、くしゃくしゃになったシーツ、ところどころに大型のCDコンポ、ボロボロになった旅行案内本、若い女性用のポシエットなどが散らばっている。
壁には稚拙で落書きのようなエッフエル塔の絵が貼ってある。初めそれはパリを表わす舞台装置かと思った。
やがて暗闇の中で、若い女性のヒソヒソ声と悲鳴のような声が挙がって照明が入ると二人の女性(=大多葉子・中村はるな)がパジャマ姿で寝ている、というか起き上がりかけている。
彼女らは、ここパリのホテルで寝ていたのだが、誰かがこの部屋へ侵入しようとしていたらしい。やがて不審者が去ったあと、真夜中に目覚めた二人は寝られなくなり、とりとめもない雑談を始める。
二人は姉妹であり、両親を亡くし、父は多額の借金を残しているらしい。それなのに暢気にこのパリの最高級のホテルで連日の物見遊山だ。
さっきの人の気配は、そのサラ金の取立屋かもしれないという恐怖なのだ。でも何かパリの高級ホテルらしくない雰囲気だ。二人は仲が良いくせにしょっちゅう口喧嘩をしているが、それは微笑ましい。
一旦、暗転すると二人は朝の食事中、ちゃぶ台に純和式の朝食風景だ。何か可笑しい……わざわざ純和風の食材を持ってきたのか、ちゃぶ台はわざとそういう演出なのか?
母親に電話をかけると姉はごく自然に話をしているのに妹に代わると何も聞こえない。第一、母親はすでに死んでいるはずだ……とりとめもない日常会話の少し滑稽な雑談が続いてもう一度暗転すると、今度は周りに千羽鶴をばら撒いて二人でゲームをしながら罰として鶴を折るシーン。
さらに暗転すると今度はむさくるしい若い男(=飯塚祐介)の汚い部屋だ。彼は二人の父に返済を踏み倒されて死なれたサラ金の担当者だった。
彼は、集金に行った部屋のベッドで、すっかり腐臭を放って死んでいた二人の死体を発見して大慷慨している最中だった。
「世の中食うか食われるかなんだよ! 俺は人を食っても生きているんだ! 甘えるんじゃないよ!」と大絶叫で暴れまくっているときに、トンチンカンな盛装の二人が入って来て、パリ旅行の楽しい計画の話を始める。彼女たちの亡霊を唖然と眺める放心の男で幕であった。
思慮浅いが可憐で憎めない切ないナンセンスな喜劇が哀しくも可笑しく描き出された。
自分の命は自分で守るという、どんな時代にもどんな人にも当てはまる、今の政治状況にも当てはまる強い意識が必要だという側面も持つ上演時間45分の一齣だった。
確かに可笑しいのだが、斜め後ろの席に座った演出の柄本明氏が、何度も何度も先取りして笑声を挙げるのが少し邪魔な感じがしたが、あれも効果音とした一種の演出なのか……
 これは以前に流山児祥・演出の芝居の時にも感じた小劇場ならではの演出かもしれない。そのときには流山児氏の、自分の作品に対する愛情と演劇に対するひたむきさが感じられて好感を持ったのだったが、柄本氏には逆にわざとらしさが感じられたのは何故なのだろうか?
柄本氏の笑声には、流山児氏のイノセントな笑声に対して意識的な作りを感じたのだろうか?