演 目
腐 食
観劇日時/07.7.18
劇団名/Theater・ラグ・203
Wednesday Theater Vol 1(再演)
作・演出/村松幹男 音楽/今井大蛇丸
音響オペレーター/伊東笑美子 照明オペレーター/柳川友希
宣伝美術/久保田さゆり
劇場/ラグリグラ劇場

深化された戯曲

 この芝居が書かれて初演されたのが01年だが、それは観ていない。再演の03年7月に観たのだが、その時の印象は、殺人犯が訥々と語る一人芝居で、特に面白いとは思わなかった。そもそも一人芝居そのものを否定的に考えていたのだ。たぶんこれが切っ掛けで一人芝居の分類を始めたような気さえする。その時に考えたのは、この芝居は役者の主観を延々と述べるという、一人芝居の最悪のパターンではないか、ということであった。
次に観たのはずっと後で、役者も田村一樹に替わった。この時はかなり第二のパターンに近かった。つまり架空の相手役とのやり取りを演じて劇的シーンを創り出すという形だ。それによって、この戯曲の内面が深く彫琢されて行ったという印象があった。
さて今回は初演と再演で演じた鈴木亮介が、5年振りの出演である。再演の印象が強いから正直あまり期待はしていなかった。
開幕冒頭から言葉を失った。全く印象が違うのだ。その原因の一つは、田村一樹がやった第二のパターンの手法を取り込んだことであろう。意図的か偶然かは分からないけれども、この手法を取ったことがこの戯曲の内面を深く耕すことに大きく貢献したと思われる。
ただ田村一樹の場合、キャリァの若さもあって充分にその内面を掘り起こし切れなかった面が悔やまれた。しかし鈴木亮介は、暫く舞台から遠ざかっていた筈なのに、実にかつて無かったほどに充実して確かな役創りをしていた。
ただ動きにいささか段取りの跡が見えるが、これはおそらく初日のせいであろうと思ったが、後で聞くと2日目だそうだ。だがこれは演じ込んでいけば多分次第に取れていくものであろう。
さて、それでは深化された戯曲の内実とは何であろうか? それは僕が観た順序に従って考えてみようと思う。初見では、この殺人犯の思いが今では思い出せないくらいの印象しかないので、当時の記録をみてみよう。
「殺人犯が、妻扼殺の動機を告白する部分で、社会主義リアリズム的背景を説明すると、この話の全体がそういう一定の枠組みの中に納まってしまい、矮小化してしまい、この男の謎めいた心情が広がらない。」と書いてあって、つまりその程度にしか伝わらなかったのだ。
そして田村一樹の観劇記を次にみてみよう。ここではこの「殺人犯のアンモラルと虚無の心情がよく現れている。」と書いて、それを主に一人芝居の手法論で論じている。
そして今回。この人物の殺人にのめり込んでいく精神的葛藤、心理の裏表がよく表現されて、感情移入がストレートにできたことが大きい。つまり一人の男の劇的真実が演劇として強く伝わったのである。僕の一人芝居に対する偏見を打ち破るほどの衝撃的体験であった。
この男の単純ではない人間性が、たった一人の役者の演技で戯曲の隠された内面を表現し得た演劇の醍醐味を味わった感動は素晴らしいことであった。