「腐食」感動の雑感
梶 司


 ラグリグラ劇場で「腐食」を観た。鈴木亮介のひとり芝居。彼の演技力のせいか、或いは又、作、演出の素晴らしさのせいか私に感動を与えた。
 私は何に感動したのだろう、それを以下に説明してみたい。
第一、鈴木亮介の演技力。彼の役は殺人犯の死刑囚である。一人芝居にもかかわらず、複数の人間関係(殺人者と被殺人者)が見事に表現されていたのだ。大体この種の芝居には、言葉(発音)の不明確なものが多くて素人には理解できない部分が多い。それがストーリーをあやふやにするのだが、この芝居に関する限りそれが全くなかった。落語のように対話形式ではないが相手の行動が良く判るように表現されていた。
第二、この芝居の中味。一言でいえば、13人を殺した死刑囚の死刑直前の心境である。彼は独房に入ってきた一人の男に殺人の理由、正当性を説明し始める。その半分を語り終えたところで、彼は刑吏に促され刑場に向う。最後に言った彼の言葉は「私は死にたくない」であった。これは現実味を帯びていた。私の友人(山本)が、死ぬとは分っている病気に罹って、死ぬ瞬間に言った言葉(松井から聞いた山本の言葉)が何と同じだったことを思い出し、人間の最後はやはり死にたくないのが率直な心境なのかと知った。
第三、彼の殺人は自分の妻の不倫に対する怒りから始まる。そこから世の中の不条理に対する彼の疑問の目が向けられる。金のために身を売る売春婦、社長夫人とその召使の傲慢さ、金持ちの中小企業の社長、ぬくぬく暮らす娼婦、彼の眼から見れば、殺人の対象となったのは総て反社会的人間なのだ。それを殺して悪い道理はない。むしろ悪を除去する行為なのだ。宗教、道徳、習慣、法律に守られた人間の生活は正しいのか。その疑問に応えるのが殺人であった。だから彼は自分の殺人を正当だと考えている。だが、彼の殺人も反社会的行為と判断されて刑場に向うこととなる。
第四、殺人犯の言分と現代社会。現代社会は民主主義国家で国民の総意(多数意見)によって運営されている。そこで国会で成立した法律は絶対なものであって、これに反する者が不利益を受けるのは当然だと考えられている。刑法又然り。そこで罰する側と罰される側の話はかみ合わない場合が生じる。
第五、世の中を規律するものは総て理に適っている。宗教、道徳、習慣、法律など。だがこれに不満を持つ者は、無言でなければならないのか。無言を肯定すると、民主主義は消滅する。自由主義もなくなる。あるのは民主主義という仮面をかぶった人間社会。仮面をかぶっているのは時の為政者とそれを支持する大衆。多数意見を強制すれば多数派の専制国家となる。これは独裁国家となんら異ならない。
第六、ここからこの劇と現代社会の問題=特に刑法を考える。私が刑法を学んだ頃は、終戦直後だったということもあって、主観主義刑法(牧野英一)と客観主義刑法(小野清一郎)があり、次世代の折衷主義(団籐重光)が台頭しつつある時代だった(いずれも東大教授)。現在は多分折衷主義が主流を占めているのだろう。
主観主義は、人間は生まれながらにして犯罪人ではない、その後の生活環境によって人間形成がなされ罪を犯す人間となる。だから犯罪者を単に罰するだけでなく、教育によって更正させることが必要なのだ、と説く。(教育刑主義)
客観主義は、犯罪人が生れながら犯罪人ではないのは当然だが、犯罪を犯すには何らかの動機があり、その動機によって起こされた罪に相応する刑罰を科するのが相当と考える。累犯があることを考えると教育の効果に疑問がある、と説く。(応報刑主義)
いずれも罰することによって、犯罪予防効果があるのを認めるのだが、折衷主義は、当然その中間の説、両者の言分を取入れた理論である。
ここから、最近の殺人事件について考えると、動機不明の殺人があり、被害家族の心情は「犯人憎し」の一点張りの報道が多い。今回の演劇のような犯人側の世の中の不条理の見解は全く見当たらないといっていい。
そこで思い出されるのは、呉智英の「サルの正義」(双葉文庫 1996.7.15第1刷)に出てくる「死刑を廃止し、仇討ちを復活せよ」というエッセイであった。国家権力による戦争の大量殺人は当然ダメ(理由は何の恨みもない兵士という人間同士の殺人だから。恨みを持っているのは権力者同士)。同じく犯人犯に何の憾みを持たない刑吏による死刑(殺人)もダメというのだ。そこで被害者に昔のように復讐権を認めよという意見、これは面白かった、近代国家は基本的人権の一つである復讐権(彼はそう考えるのだ)を国家権力によって奪い死刑制度を作ったというのだ。俺の頭に残ったのは{仇討ちを復活せよ}という部分だけ。妻や娘を殺された父親の気持ちを晴らすには犯人にどんな事情があったにせよ量刑の均衡では満足しないだろう。これは自分の気持ちを晴らすものにはならない。
俺は学生時代、牧野先生の憲法講義を受けたこともあって、先生を尊敬していた。現憲法制定の際、貴族院で軍備の保持を否定する憲法は国家の法とは言えず、唯一反対したのは私一人だと先生は自慢していた。お茶の水駅で国電で通っていた先生の姿など忘れられない。
 第七、こんなこともあって、俺はどちらかというと主観主義刑法が好きだった。人間はもともと犯罪人ではない。何らかの理由によって犯罪人となる。それを更正できないとすれば、犯罪即刑罰で事足りる。少年法など未成年だから刑を科さない又は軽くするという必要がない。少年の犯罪は少年の悪性の表れだから、その芽は早く摘んだほうが良いということになる。だが両親は自分の生んだ子供の更正に望みをかけて生きている。人間、仲良く生きて行こうという思想に立てば、考えが甘いかもしれないが、犯罪者の心理を分析し、本人を更正させることと同時に、犯罪の起こった社会、家庭を分析し、犯罪の起こらない社会、家庭環境を作るべきなのではないのかと。
第八、個人個人、自分の考えを持つのは善なのか悪なのか。先に言った、宗教、道徳、習慣、法律に反する個人的な考えは悪なのか。これはもう個人の判断に委ねるしかない。自分の好悪によって悪と思えば悪、善と思えば善だろう。その意味でこの演劇の評価は無数にあると思えたのだ。

復讐権を作れば裁判官は全く悩むことはない。裁判官は彼が犯人かどうかを判断すればよい。しかもなお裁判員制度が出来れば裁判官の負担はますます軽くなる。
だが実は、裁判員制度については俺も良く知らない。要は民間人を裁判に参加させて、判決結果を批判させないというだけではないのか。アメリカの西部劇に巡回裁判官の補佐役として地元の裁判員が出ていたことを記憶している程度だ。何でもアメリカの制度を取り入れたらいいというものではあるまい。あえて異見を言うと、検察側と弁護側の意見は常に対立する。それを裁判官が公平に判断できないとすれば、無能な判事というほかない。素人だから公平な判断ができるという根拠は一体何処にあるのだろう。

日本の言葉遣いにしろ、食文化にしろ、ファッションしろ、住居にしろ、欧米化が将来の美しい日本の姿ではあるまいと俺は思っているのだ。
例えば、日本語。やたらとカタカナ語が多い。しかも日本独自のカタカナ語。アポイントメント(予約)をアポとったと略す。
食文化はどんどん洋風化が進んだ。米に代わる食パン、味噌汁に代わるスープ、魚に代わる肉、漬物に代わる野菜サラダ、日本酒からワインへ、その他いろいろ。ファッションは、着物が姿を消しつつある。女性の髪形は幽霊のようだ。住居は、和風から洋風へ。木材家屋から鉄筋構造へ。畳の間から椅子の間に。
このような変化が悪いわけではない。自然の流れなのだ。
だが、日本古来のものが日常性からどんどん遠のいて行くのが寂しい思いだ。こんな考えは時代遅れかな?

と、思いはどんどん広がる。そう考えると、この演劇は一種の問題提起だ。観る者の立場によって評価は様々になるというわけだ。充分な満足感をもって帰ったのであった。
        07年7月26日
松井・註
僕・松井の友人、梶司の長い文章を収録した。彼をシアターラグに誘って何年になるか? こういう成果を生み出したことを、僕(松井)は誇りに思い演劇に携わった喜びさえ感じる。
僕の芝居の観方とは全く違った角度から、彼なりに様々な感想を持ったということは、僕にとっても貴重な経験になる。
こういう友人をもったことも僕の大きな財産である。