演 目
三人姉妹
観劇日時/07.5.18
劇団名/北翔大学短期大学部人間総合学科
芸術系3期生中間公演
作/アントン・チェーホフ
演出/村松幹男
スタッフ・キャストは全員学生
劇場/札幌市教育文化会館小ホール

教育としての演劇と、演劇の教育

 深川の拓殖短期大学が、教育の一環としてミュージカル制作・上演を実施している。学長はそのパンフレットの中で、「感動体験こそ教育の原点」と述べている。そこで問題になるのは、悪い言い方だが道具としてつかった演劇から何を学んだか? と言うことだろう。
 もちろん「感動体験」が目的なのは間違いがないが、一方、演劇というソフトを使ったからには演劇のもつ何物かからも感動を得なければならない。
 拓大の演劇にはそれが希薄だったのだ。その基本に戯曲の底の浅さを見たのだった。戯曲の内容をどう考えてどう感動したのかという視点が見えなかったのだ。
余りにも唯々諾々と、既製品を鵜呑みにしたような感動の薄さを感じたのだった。
 ところで今日観た北翔大学『三人姉妹』は、演劇を勉強する学生がその過程を公開するということだ。したがってここで使われる戯曲は、一定の評価のある作品を舞台化するという方法をとっている。
 「舞台を創る」という表現の、基礎を丁寧に実施してみるという作業だ。それが「教育のための演劇」とは異なる「演劇の教育」という理由だ。
 だからこの舞台は、「演劇としての成果」より彼らが演劇の何を学んだか、ということが問題となる。
その問題に対しては、20歳前後の幅の狭い年齢層の役者たちが中年から高齢者を演じるのも、男性が少ないために男役を女性が演じるのも止むを得ないというよりは、役者は自己以外の人物に変身するということが大前提であるから却って勉強になるともいえる。
演劇を学ぶ者たちが、戯曲から何を学び、どういう風に舞台化するのか? そしてさらに自分たちがどんな戯曲を創るのか? という過程である。
総じて、誠実に丁寧に力一杯に表現しようとしていたのは好感がもてたのだが、一部小さな役を演じた何人かが中途半端なのが気になった。こういう役の人達がきちんと演じないと全体が嘘になる。千里の堤も蟻の一穴からという。そのことを教訓として得て欲しい。
 次に装置が狭くて窮屈そうで不自然なのが気になった。動きの合理性を学んで欲しいと思う。
 この人たちの中から、次代の演劇人たちが大勢巣立つことを期待したい。或いは裾野を大いに広げる基礎を作って欲しいと願う。