演 目
映 画/武士の一分
観劇日時/07.3.13
劇場/滝川ホール

曙光を垣間見る不条理劇

 藤沢周平・原作、山田洋次・監督作品による映画三部作の最後の作品である。「雨あがる」「鬼の爪」そしてこの「武士の一分」。その中で僕が一番面白かったのは「鬼の爪」であった。
「武士の一分」は、話の枠組みが小さいような気がする。一人の下級武士の自分自身だけの物語になっているのが、やや物足りない。もちろんこの一人の下級武士が理不尽な運命に向かって、「武士の一分」を賭けて闘う経緯は、この一人の武士の「一分」を超えて普遍的な状況を描き出すことにはなる。
だがやはり個人的な面を超えて枠組みを大きく広げることによって、その普遍性が鮮やかに描き出されることになるのではないのかと思う。
そういう意味で、同じような不条理劇であった「鬼の爪」の感想を今ここに再録する。実はこの文章はある小さなメデァに書いたものだが、それは誤植だらけの意に満たない発表形態だったので、それをそのまま誤植を訂正して再発表することにした。


これは時代劇に形を借りた現代劇である。しかも不条理劇だ。海坂藩という一つの体制の不合理を内部告発しようとした実直の正義漢・狭間弥市郎は、権力の圧制によって人間性を失い狂っていく。
その弥市郎の心を知りながら、あえて弥一郎を討たざるを得ない苦悩する現代的なインテリで弥市郎の親友・片桐宗蔵。
愛し合いながらも身分の違いで、真実の愛を覆い隠さなければならなかった宗蔵と美しい下女のきえ。
世間の表面から身を隠した戸田寛斎は、事情を知り尽くして愛弟子の宗蔵に秘策を授ける。寛斎にとって弥市郎も宗蔵と並ぶ秘蔵の弟子であったのだ。
これらはすべて不条理の世界だ。それらの中で唯一、安らぐのは宗蔵の妹・志乃とその夫で宗蔵の親友・左門の人間らしい自然体。
弥市郎も宗蔵も、ともに不器用な生き方しか出来ないが、己の真実を通そうと突っ張って自滅する弥市郎に対して、宗蔵は師匠・戸田寛斎の柔軟な生き方によって現世を救われる。
そして、弥市郎の妻・桂の捨て身の抗議を弄んだ家老・堀を密殺する、宗蔵の「鬼の爪」は「必殺仕置人」のカタルシス。
殺風景なさまざまな状景のバックに流れる、鶯・郭公・土鳩などの鳴き声が印象的。あの鳥たちはその生命を全うしたのであろうか?
ラストで、武士の身分を捨て愛するきえの許を訪ねて求婚する宗蔵に、きえは「それは旦那さまのご命令でしょうか?」と微笑んで聞く。ハッピイエンドは不条理な現代へのかすかな憧れであったのであろうか?
さて、「曙光を垣間見る不条理劇」というタイトルは形容矛盾だろうか? 普通、「不条理劇」という場合、「人間存在の不条理性を核とした戯曲・舞台(広辞苑)」、つまり不条理を表現した場合、明るい展望がないのが一般的な概念である。しかも、不条理の原因や理由が判然と説明されていないことが「不条理劇」の大きな特徴でもあるから、この映画のように原因や理由がはっきりと分っている場合、「不条理劇」の感覚と違うような感じがするのである。
しかし次のような記述があることを紹介しよう。「カミュによれば、不条理から目をそらさず、最後まで不条理と闘い、反抗しながら生きることに、人間の尊厳や自由があるとした(日本語大辞典=不条理の項)」という考え方があるのである。


 「武士の一分」では、新之丞が毒見に当って病気になるときには大雨、盲目を宣言されるときは大風、そして妻・加世が罠に落ちたことを告白するときには雷雨という自然描写がうまく配分されているのが印象的だった。