演 目
谷は眠っていた
観劇日時/07.2.16
劇団名/富良野塾
作・演出/倉本聰
出演/富良野塾
劇場/富良野演劇工場

登場人物大勢の一人芝居か

 トップシーン、真っ暗な中から紗幕を通して大勢の若者たちが舞台全面にスローモーションで登場すると、それぞれがそれぞれのポーズでストップモーションとなり、カラフルで静謐な中に込められたエネルギーが感じられこれからどんなドラマが始まるのかドキドキするような期待感が高揚する。
だが舞台が進むに連れてその期待感は薄れていく。ドラマが起きて来ないのだ。すべてが塾生たちの苦労話なのだが、それは事実を語っているに過ぎず、人間同士の葛藤の物語になっていないからだ。
この展開は、僕の考える一人芝居の1類の最悪の典型だ。一人芝居の1類とは、演者が登場人物の主観のみを語ることと、情景を客観的に描写するだけの表現方法だ。
これだと本を読んだ方がよいということになってしまう。芝居の醍醐味とは、生きている人間同士が舞台上で葛藤し、観客はその現場に立ち会うことにあるのだ。
登場人物が41人と多いが、ほとんどドラマとして絡んでこない。まさにこれは悪い意味での一人芝居だ。
ラスト近くアキレス腱を切った女を巡ってドラマが起きかかるが、いつの間にか妥協したような感じで曖昧に霞んでしまった。
トップシーンで衝撃的だったスローモーションが、次々と様々な場面で多用されるのはまたかと、いささか食傷気味。
富良野塾の起草文に「石油と水・車と足・知識と智恵・批評と創造・理屈と行動」の五つの対比を挙げて、文明を批判している。
確かに富良野塾は、基本的に過度の文明に頼り切る現代人の猛省を促していて、そのこと自体には賛意を表するに吝かではないが、気になるのは「批評と創造」を対比させたことだ。
この「批評と創造」の二者択一は短絡過ぎて、他の対比とは次元が違うのではないのかと思う。「創造」と「批評」とは車の両輪であって、批評のない創造は独り善がりの危険がある。
それと富良野塾は文明を全否定しているような印象があるが、行き過ぎた文明を批判する役割は貴重だが、文明は使いようだと考える。
先日観たある芝居で、携帯電話依存症の子どもたちが、携帯電話でコミユニケーションをとることの有効性を示した。要は使い方だと思った。