編  集  後  記


 前号(15号)で、コントへの関心について初心を書いた。すると早速、東京コメデイ倶楽部の原健太郎氏(月刊『笑息筋』編集・発行人)からご丁重な書簡を戴いた。それほど深くは考えていなかったので、逆に驚いて責任を感じている。
原健太郎氏は、熱い心の持ち主でいつも懇切丁寧な手紙を下さり、雑誌『喜劇悲劇』にも紹介して下さる私の大きな理解者のお一人である。
そこでこの際、なぜコントについて考え出したのか、そのきっかけを記しておこうと思う。
そもそもの発端は、毎年2月に行われる旭川近郊の鷹栖メロディホールの『熱闘三分間劇場』である。これは「三分間舞台を提供するから自由に使って何かを表現して舞台に親しんでください」というコンセプトで始まった企画で、今年2月に第8回を行った。毎年旭川近郊各地から30前後のチームが出場する。マイナーではあるけれども質は高いと自負している。
私の所属する集団も、第三回から2・3作品を毎年連続出演している。当初は音楽やさまざまなパフオーマンスなどもあったが、ここ2・3年ほとんどいわゆるコントといわれる表現か、短編演劇だけに絞られてきたようだ。その理由は判然とはしないが、やはり訴求力が強いのではないのかと思われる。
そこでコントと演劇とはどう違うのか? という素朴な疑問が出てきたのだ。だんだん三分間では演劇は創れないのではないか? というところから始まったのであった。
さらにそのころ劇作家・別役実が『コント教室』という書物を刊行されたのである。それが決定打となってコントを考えてみようとなったのであるが、まだ考えているだけで進んではいないという情けない状況ではあるが……


さて、原健太郎氏はその『笑息筋』第226号(07年3月号)で「劇団ズーズーC」の「オメオリケイジ一人芝居」『喜劇 告白の通夜』の観劇報告『一人芝居の更なる可能性』という巻頭論文で、私・松井の「三つのパターンに分ける一人芝居の分類」を引用して、この一人芝居は松井の考える第二のパターン(登場しない相手役と葛藤の演技をする)と規定し、この『喜劇 告白の通夜』という一人芝居は、「なぜ相手役を登場させないのか」という松井の仮説に一つの答えを呈しているという説を展開された。
私はこの舞台を見ていないので、一人芝居の可能性を見られなかったことと、反論の正当性を確認できないことが残念なのだが、文中「七人を演じるのはオメオリケイジだけである」の「七人を演じる」という部分に着目すると、この芝居は、私のいう第三のパターン(一人が複数の人物を演じ分ける)に該当するのではないのか? と思われる。そして私は「このパターンだけが演劇的である」と述べている。
しかしいずれにしてもこういう分類が、観客にとってどれほどの意味があるのか、自分では分からなくなってきた。要するに面白ければ良いのではないのか? もちろん一人芝居の面白さ、イヤ逆説的になぜ面白くないのかを考えているうちに、こういう分類を思いついたのであるが、何が面白いのかは人によって違うであろうし、という素朴な疑問に悩まされるのだ。


三月も半ばを過ぎてから、続けて二つの面白いというか、僕好みの芝居を観た。KOKAMI@netwark『僕たちの好きだった革命』と、TPS『虹と雪のバラード』である。それに『紙屋町さくらホテル』も含めて、詳細は本文に書いたから、読んで頂ければ幸いだが、その後、次のようなものが目に入った。
朝日広告賞の準朝日広告賞、講談社『興亡の世界史』のコピー「こんどの戦後も、やっぱり戦前なんだろうか」という文言。
アメリカの作家ピアス・著『悪魔の辞典』「平和」の項の規定「二つの戦争の間のだまし合いの期間」である。
今、世界も日本もかなり危険な時代に入った。おまけに天然自然現象も何か異常を感じさせる。
僕の肉体は遠からず滅び行く現象だけれども、何だか死に切れないような焦慮感が募る昨今である。


ある人の演劇評のブログを偶然見た。『僕たちの好きだった革命』について、「歴史観を根底に哲学をもて」という趣旨だろうと読んだ。
僕には到底考え付かない深い考察力には脱帽したのだが、全体の見方は僕と違う。そのことは様々な見方があろうからそれはそれで良い。
問題は、文中に散見する「バカ! 死ね」とか「ヤキが回ったか」「詐欺師も裸足で逃げ出す」などという、人格を否定するかのような罵詈雑言を読むと、この人の品性の下劣さに心底から肌寒さを感じる。
洞察力の深さに感銘したその裏側の人間性の冷たさ、これを「狷介」というのだろうか? 「狷介」というのは良い意味だとばかり思っていたのだが、辞書(「広辞苑」ほか)を見ると現在では、多く悪い意味に使うと出ていた。なるほどケモノ偏で出来ている語句だ。
なんとも後味の悪い劇評だった。


一つの芝居を観て感想を書こうとすると、その内容に触発されてその芝居に込められた様々なモチーフを解明
したいという欲求の迷宮に踏み込む。
たとえば『栖家』では簡単に三島由紀夫などと言ってしまったし、『腐食』ではまた不用意にも『罪と罰』を持ち出し、自縄自縛から抜け出すのに苦慮している。
『奴婢訓』ではスイフト・ジャンジュネ・シンデレラ・宮沢賢治など足を踏み入れたらそれこそ迷宮だ。


この期に本冊記載以外に観たもの。

『LiFE』CAPSULE 第6回公演
07年1月20日/BLOCH
脚本・演出/武田美穂
『ゴの話』深想逢嘘 第5・.55回公演
07年1月27日/BLOCH
脚本・総合監督/城谷歩 演出/佐藤康司
映画『フラガール』
07年2月13日/たきかわホール
☆ 以上3点は当方の力量不足で諦めた。

『長屋紳士録』劇団乾電池
 07年3月14日/シアターZOO
『腐食』Theater・ラグ・203
 07年3月14日/ラグリグラ劇場
『不思議の国の大人のアリス』
 07年3月18日/深川市み・らい
『腐食』Theater・ラグ・203
 07年3月28日/ラグリグラ劇場
  ☆以上4点は、再演または上演中複数回観たものだが、前回以外の発見が出来なかった。
   『腐食』にはあったのだが、「虚無と開き直りの中にあった人間性」という、結末から逆算したものなのだったので、あえて収録しなかった。

『酒飲めば……』『My self』深川市民劇団
 07年3月23日/深川市文化センターパトリアホール
  ☆自分の属する集団なので遠慮した。