演 目
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観劇日時/06.11.4
劇団名/劇団リベラルシアター
公演回数/第4回公演
脚本・演出/千広峻史
照明/前田ゆりか
音響/久保田秀和
舞台/上田知 
衣装/逢坂美代子・ツネモトナオ 
制作/山崎孝宏・中村友紀
宣伝美術/井上愛美
劇場/BLOCH

思春期の自意識

 「孤独な少女が迷いこんだデジタルな世界は、彼女に『真実』を見失わせた……『ずっとここにいる……生きていく』」というキャッチコピーの物語は、先日観たistの『KABEU』に酷似している。
こちらの方は少女の意識の中からの世界であり、istの方は外側の世界から見た少女の意識を描いたという両面性はあるが、どうしてこうも似てくるのだろうか?
『ボトルネック』という青春ミステリーの著者・米澤穂信氏は著者訪問で「自分は無価値なのか、本当に大切なのはそこから自分に何が出来るのか(略)」と述べている。(06年11月5日=北海道新聞)この芝居、まさにその通りではないか……
でも、これって良く考えてみるまでもなく当たり前過ぎて、いくら青春って言ったって余りにもまとも過ぎてあんまり面白くないような気もするんだが、結局それは僕が青春から遠ざかってしまったってことなんだろうか?
そんなことを考え出すと、今日の芝居とは関係のない愚痴みたいになってしまうが、芝居を観るのが億劫になりかねない……それも齢のせいか?
気を取り直してさらに一考する。最近、演劇の上演に当たってのパンフレットやリーフレットなどに、作者の立場を「作(戯曲)」とせず「脚本」「台本」などと表記する考え方に疑問を感じる。
僕の感覚では「戯曲」は、その作品自体が一つの文学作品であるという感じ方に対して「脚本」「台本」は舞台に従属するという感じ方が強いからだ。
もちろん「戯曲」にもレーゼ・ドラマという演劇現場からの独立性の強い作品もあるのだが、「戯曲」は舞台化されて初めて生きてくるという性質のために耐久性の強さが要求される。
それに対して、「脚本」「台本」と言われると、使い捨てで、その場限りの印象が強く、「失敗したらご免なさい」というような逃げの姿勢が感じられるのだ。考えすぎだろうか……
何か今回は、今日の芝居と直接に関係のないことばかりを八つ当たり的に考えてしまった。おそらく今日の芝居はいささか退屈したんだろう。