演 目
KABEU
観劇日時/06.10.21
劇団名/劇団ist
公演回数/第15回公演
脚本・演出/和田志麻
照明/和田研一
音響/大津充敬
ヘアメイク/矢萩律子
劇場/BLOCH

面白いモチーフ

 厚い壁を隔てて隣合わせに二人の若い女性(=倉菜穂子・山科アヤ)が住んでいる。お互いにその存在は知ってはいるが会ったことはない。しかし会話はできる。
彼女らは自分の行動が、自分の意識ではなく誰かに操られているように感じ出す。壁の向こうのサーヤ(=和田志麻)と名乗る女が操り手らしい。彼女たちは周りの友人たち(=野城美雪・吉田恵理子)の協力を得て自分たちの自由を取り戻していく。
ところがそれはサーヤが事故で意識を失っていた間に見た妄想だった。彼女は「自分の存在というものは存在しているという意識だけで、本当に自分という人間は存在しているのだろうか?」という難問に苛まれていたのだった。
哲学的主題の面白いテーマだが、早い時点で二人の若い女性は、サーヤが「たまごっち」式「コンパクトっち」というゲーム遊びの中の現象だということが、判ってしまうので緊迫感がなくなるのと、役者たちの台詞が棒読みなので退屈する。
自分が今ここに存在しているという意識は、自分がそう思っているだけで、それを証明して他人に認めさせる方法はない。それどころか、自分が今ここに存在しているという事実など初めっから無いのかもしれない。
そういう自意識過剰で現実離れのした形而上的観念のお化けみたいな妄想など、余計なお世話な話だと思われるかもしれない。
だが、僕は幼い頃からよくそういう想像をして、朝目を覚ましたら一切が空になっていて、つまりそれは死なのかもしれないが、しかも自分が死んだということさえ判らずに死は無であると思うと実に怖くなることがよくあった。
しかし最近、認知症などという病気、つまり自分の存在を意識できなくなるという病気が顕著に増えてきた現実を考えると、余計なお節介な話だとも言えなくなる。
さらに近年、常識では考えられないような事件が起きるのも、自分の存在に不安定感を持つ、夢遊病のような感覚が引き起こす現象の一つであるのかもしれないとまで想像をたくましくさせる、折角の僕好みの素材が空振りに終わったことが残念であった。
ほかに出演は、男4役(=ぎょにー)。あざみという名の医師らしき女(=徳田七絵)ら。