演 目
酔っ払いと椅子と宇宙人と
観劇日時/06.10.18
劇団名/Theater・ラグ・203
公演回数/Wednesday Theater Vol.15
作・演出/村松幹男
音楽/今井大蛇丸
劇場/ラグリグラ劇場

達観したはずの人生に逡巡

 物語は、平凡で力もない普通の会社員(=平井伸之)の一夜の夢の話である。彼の少年時代の夢は宇宙旅行。ある夜、酔っ払った男は自宅近所の小公園で上司の悪口に管を巻きつつ何時の間にか寝入ってしまう。
うたた寝から目を覚ますと、何故か木製で粗末な昔の学校生徒用の椅子がある。人間に座られることだけに存在価値がある椅子に、自分と同じ存在位置を感じて感情移入した男は、椅子に人格を感じ、椅子を相手に愚痴と連帯の交流を図る。
うたた寝するたびに、椅子が二つ三つと増えるに従って、交流は複雑になる。椅子が増えるのはイヨネスコの『椅子』のパロディとしても楽しめる。
次に、これは実際の俳優が扮する宇宙人(=伊東笑美子)が登場するが、男は少年の頃の夢とWって、会社も家庭からも、その柵から解放されて自由への憧れに従って、その宇宙人の故郷の星へと旅立とうとする。
椅子に飲みかけのワンカップ酒が置いてあるのに気づくと、タバコに火をつけて逆さに立てて線香に見たて、免許証の写真を飾り自分の葬儀の祭壇を作って過去の自分を葬り去りたいと思う場面は、ユーモラスであり、『冬のバイエル』のピアノ葬のシーンと同じような名場面だが、ピアノ葬の単純な面白さに比べて、こっちの方が男の心情の切なさを強く感じられて奥深い。
椅子も宇宙人も、男の夢か妄想か? ラストは心配した愛妻が迎えに来て、ほろ苦い男の哀愁はハッピィエンドで幕となるが、『りんご』と『E・T』とに通じる、愛すべき秀作であった。
さてこの芝居の表現方法は、新しいタイプの一人芝居が中心である。ほとんどが酔っ払いと擬人化された椅子との芝居だからだ。
文芸を「詩」「散文」「戯曲」「評論」の四分野に分け、演劇という表現が戯曲を土台にして成り立っていると考えると、演劇が他の分野の表現と基本的に違うのは、演劇の存在理由が、人間と人間との葛藤のプロセスを再現し、その場面に立ち会うのが観客の存在意義だという僕の観点から、一人芝居を次のように分類してみたことがある。ただし、映像との差異は別の観点から論じる必要がある。

1、自分の主観だけを述べ、状況は客観的に描写する。この方法だと、本を読めばいいということになってしまう。人間と人間との生身の遣り取りが表現されないから芝居としての魅力が薄い。

2、登場しない見えない相手役と葛藤の演技をする。しかしそれならば相手役を登場させればいいということになってしまう。なぜ相手役を登場させないのか、その理由がわからない。相手役が遠方にいる必然性が必要な場合のみ電話という武器が使える。

3、一人の演者が、複数の人物を演じ分ける。これだけが演劇的であると考えられる。そして今、考えられるのは、落語がこの方法だ。

一人芝居のパターンとは、この三つの方法のどれかか、その混交形かであろうと考えている。
(以上について、詳しくは『風化』135号「りんご」演出ノートを参照ください。)
さて、その後、森下誠・作『自転車と少年』(シアターラグ水曜劇場で上演)を観て分類に困った。基本的には1類だろうが、表現としては微妙に違う。身体全体を激しく使っているのが演劇のもう一方の視覚的魅力を強力に訴えているからだ。だからこれを「1のa」とするか4類とするか?
そして今回の『酔っ払いと椅子と宇宙人と』は、基本的に2類のパターンだ。「2のa」としようか? だが違うのは相手役が現実に観客の目に存在することだ。しかも物体(この場合は椅子)を擬人化して……これを相手役と認定するのか? 一人芝居第5類のパターン登場の予感である。面白くなって来た。