演 目
夕 鶴
観劇日時/06.6.8
日本劇団協議会 次世代を担う演劇人育成公演 TPS制作
作/木下順二
演出・音楽/斉藤歩
照明/熊倉英記
照明オペレーター/黒丸祐子
スタッフ/本阿弥梢・本田裕一・佐藤俊之 宣伝美術/若林瑞沙 制作/平田修二
配役 与ひょう/永利靖 つう/中川原しおり 惣ど/高田則央 運ず/安藤啓佑
   子ども達/同じ・他に他組の出演者たち
劇場/シアターZOO

透けて見える原作

 完成度は一番高いのかもしれない。だが役者間の力のアンバランスがあまりにもはっきりと出すぎて白けた。
巧い役者が出演したからといって必ずしもいい舞台になるとは限らない。むしろ精一杯頑張っている素人同然の「つう」が可哀想な気がして芝居に入っていけない。
「運ず」と「惣ど」は竹組と全く同じ感じ。こちらの方がキャリアが長いだけ安心感がある。
三つ観て全部に感じたのは、金が全ての価値感である現代をもう少しはっきりと表現した方がよかったのではないのかということであった。
古典をやる時、一番問題になるのは、現代化をどうするか? という課題だろう。音楽劇としたのは昔オペラにしたのと好一対で、現代的で面白い企画なのだが、肝心の「つう」と「与ひょう」の内部の掘り下げが足りずに欲求不満が残ってしまった。
 さて今回、舞台からはどうしてもその背後にある原作が透けて見え、それが気になってしまったのだ。
その最も重要な要素として、「つう」は自分の真の姿である鶴の形をどうして「与ひょう」に見られたら困ったのであろうか? という疑問だ。それが「与ひょう」と別れなければならない原因の最大で究極の問題であることの意味とは何なのか?
「つう」の存在は、自己犠牲の愛の極致であり、「与ひょう」は、「つう」にとって幻想の愛の対象でしかなかったのか? 逆にいえば「運ず」や「惣ど」や子ども達も含めて、そういう現実に「つう」は存在し得ない存在なのか?
純なるものの象徴であり化身である「つう」の、人間という存在に対する絶望感、タブーを冒した「与ひょう」に対する断絶ではく、人間そのものとの決別。だからこそ「与ひょう」の原点は見捨てなかったのだろう。
「その布一枚だけは、いつまでも大事に持っていてね」、「元気でね」この二言が「つう」の最後の言葉である。