演 目
メッセージ
観劇日時/06.2.26
劇団名/拓大ニュージカル
公演回数/第22回公演
脚本・作曲・音楽監督/土門裕之
演出/前田順二
ダンス指導・衣装・メイク/藤井綾子 
ボイストレーナー/山本徹浄
照明/河野哲男
音響/富田雅之
舞台美術指導/藤村健一
劇場/深川市み・らい(深川市文化交流センター)

感動の質について

 とにかく、今の若い人たちは歌やダンスがとても巧い。リズム感がいいというか体が柔軟に動くというか、それは実に見事なものだ。
莫大な人数、スタッフ・キャスト総勢100人という実働者、4ヶ月という長期の準備期間、それも一つの大学の学生だから連絡もし易いし集まり易いという好条件。普通のアマチュアの集団では考えられない高額の予算。やっかみを含めて、これでは一通りの舞台が出来て当然という気もする。
さてここでは、二つのことを指摘したい。
まず物語である。アマチュアのミユージカルでは大体二つの系列がある。一つは名作の現代化であり、最近この路線が盛んだが、元がしっかりしているから、よほど間違えないかぎりあまり失敗しない。
ところがオリジナルの系列の場合、安易なストーリィに陥ってしまうケースがある。今日の話もそれである。突然の事故で死者となった5人の若者たちが天国へ行くのか地獄へ行くのか、審判を待つ間にそのうちの一人の恋人が死の直前にあり、しかも地獄へおちるということを知る。5人は力を合わせて彼女を救おうとする。
2時間の長丁場だから途中さまざまなエピソードや見せ場も豊富だが、要は単純な話だ。必ずしも悪いとは言えない。現に小中学生や、舞台に馴れない中年者や年配者たちはとても楽しんでいたと思う。
だが大学生が演じるミユージカルがこれで良いのだろうか? 去年は遠藤周作の『私が・棄てた・女』の舞台化に挑戦した意気を買う。必ずしも成功したとは言えないかも知れないが、その意気を壮とする。
もっともこの学生ミユージカルは「感動体験こそ、教育の原点」という学長のパンフレット挨拶にある通り、100人の協力によって一つの目標を達成させることにあるとするならば、物語は単なる道具であり、甘いといわれようとヒユーマニズムであればよいというのであればそれで良いのかもしれない。舞台とは創る者と観る者との感動の共有だ。だが問題はその感動の内容であり質である。その質に不足がないのであろうか? 深みが足りないのではないのではなかろうか?
もう一つ強く感じたのは、歌とダンスの技術的な達成度に較べて、台詞のテンポが現実離れして間延びした異常さだ。動きに変な誇張や不自然さを余り感じさせないのに、この台詞の異様さが不思議だ。思うに感情移入が過多になったために無理で間延びした言い回しになってしまったのであろうか? 中にはごく普通に自然に喋っていた人もいたので、本人は気づいていないし、指導者はそれも一種の誇張表現として容認したのかもしれない。だがそこだけが異分子となって邪魔して、芝居ってそんなものかと思われることを心配するのである。
さて、演劇と教育について最近、感動的な本を読んだ。唐十郎と室井尚の共著『教室を路地に!』(05年9月岩波書店)である。その一部でも紹介したいと思い、読み返してみたが到底エッセンスだけを抜き出すのは無理であった。
この本は、演劇と教育との関連を超えて、演劇の持つ力・演劇というものの根源にあるもの、そして教育とは何か? という本質的な命題が見事に融合されていく、まさにその劇的な経過を記録したものだ。演劇人にも教育者にも、一般の方にも、ぜひ一読をお勧めしたい。