演 目
宴会泥棒
観劇日時/06.2.21
劇団名/劇団NLT
原作/ジュリオ・スカルニッチ レンゾ・タラブージ
脚色・演出/釜紹人
美術/大田創
照明/成瀬一裕
効果・選曲/高橋幸雄
衣装/宇野善子 
演出助手/北澤秀人
舞台監督/竹内一貴
制作/小川浩・徳岡典子
宣伝美術/北谷しげひさ
劇場/旭川市公会堂

設定の無理が興を削ぐ

 いわゆるウエルメイドプレイなのであろう。だが設定の基本に大きな無理があり過ぎて素直に楽しめない。
まず主人公の職業が「宴会泥棒」ということだ。主に結婚式のパーティに招待されないのに出席して、その料理をくすねてきて転売するというのが彼の商売である。結婚パーティというのは、新郎側と新婦側との客が互いに面識のないことが多いから、全くの他人が潜り込むことは容易に可能であろう。おそらく日本のように座席が指定であるとまず無理だ。その先入観があるから違和感も大きい。
ナポリの祝賀パーティが無制限の立食式だとして、スンナリと潜り込んだとしても、忍ばせた容器に料理を盛り込んで隠し持ち運び出すということはかなり無理があるし、その量だってたかが知れている。
さらにそれらがクリアされていたとしても、それを転売する手下の男が唯々諾々とこの主人公に搾取されているのも納得がいかない。
さらにそういう不自然な仕事を、働き者で懸命な妻や、少しいい加減だけれどもやはり働き者のその妻の姉とが、男の言いなりで一切反抗しないというのも現実的でない不思議な関係だ。それらをすべて許容する魅力をもった男だとは到底肯き得ない。
次に、男が目論んだ一世一代の詐欺の仕掛けだが、それにまんまと乗ってきた貴族たちの無能さにも納得がいかない。その貴族たちの無能さを嘲笑するにしても余りにもバカバカし過ぎて説得力が弱い。
そういう箇所がいっぱいあるわけで、この芝居はそんな人間の弱さを誇張した喜劇だから、いちいちそんな具体的な設定の弱さをあげつらって本質を見落とすなという考え方もあるのかもしれない。
しかし演劇という表現は、究極の虚構を微細なリアリティが支えて、その巨大な嘘をどうやって保証するかというところに面白さがある。このようにひとつひとつの設定の弱さが全体の虚構を支えきれないと、すべてが絵空事になってしまう。
また、この芝居は時代劇だから現代の感覚からみると荒唐無稽な設定だとしても、やはり現代の感覚で納得できる核心がなければ、あるいは現代的な意義を感じさせる表現をしないと現代に受け入れられない。演劇は博物館じゃないのだ、現代に生きなくてはならないのだ。
ラストシーンの感動が、それまでの流れからいってあまりにも唐突で、感動の無理強いに感じられて急速に白ける。それまであれほど妻やその他の人たちに対して自分勝手に振舞っていた男が、いきなり大金を渡して永遠の愛を誓うことがこの男の人格が急変したとしか見えないのだ。
むしろ男と回りの人たちとの関係がそのまま続いていた方が、こういう人間関係の存在を考えるという意味を残したのではないのかとさえ思ってしまう。
僕としては、これまでのポリシーからいって、この舞台は沈黙すべき対象なのだが、NLTという集団は僕がこれくらいの異見を述べてもそれこそ黙殺されるだろうという推測のもとにあえて違和感を申し述べる。
それに3ステージ満員の客席が、充分に満足しているような雰囲気がとても気になったという事情もあったのである。