演 目
ひとりぼっちの狼と七匹の小山羊
観劇日時/06.2.5
劇団名/人形劇フエステバル2006さっぽろ冬の祭典
原作/小沢昭巳
脚色/坪原功和
演出/遠州まさき
人形美術/大森順子・菅原純子・竹腰多美子
舞台美術/遠州まさき・坪原功和
音楽/中島律子
サキソフォーン演奏/福村まり
舞台監督/井川亮
助手/戸塚直人
照明/鈴木静悟
音響効果/オフィスこたけ・岩城真理子
サキソフォーン演奏は本日の出演者
劇場/やまびこ座(札幌東区の市立子どもの劇場)

人を信じるということ

 グリム童話に『子山羊と狼』という話がある。親山羊の留守の間に入り込んだ狼が子山羊たちを喰ってしまうという残酷な物語だ。
食物連鎖という天然摂理からいうと、子山羊たちは可哀想ではあってもやむを得ない自然現象であり、それをどう納得するのかということであるのかもしれない。万物の霊長である人間だって、人間の天敵である病原菌ウィルスには勝てないのだ。ガン細胞やその他のウィルスも生き物であれば、それも一種の食物連鎖なのかもしれない。果たして人間はそれを受容できるのだろうか?
さて今日の芝居は、本来羊を喰って生きるはずの狼が、なぜか肉食できなくなった、というところから悲喜劇が始まる。
私事ながら、実は僕も今から50年前にこのテーマを考えたことがあるのだ。そのころ僕は人形芝居をやっていたが、その当時の人形劇の世界はいわゆる社会主義リアリズムの物語が主流であった。僕はその流れに違和感を持ちながら人形芝居をやっていた。
『子山羊と狼』も当然、その流れの中では「搾取者の狼と弱い立場の山羊」という図式で表現され、それが多分大方の了解されている方式であったはずだ。
僕もこの図式に根本的な抗議を申し立てたわけじゃない。ただ何となく違う見方があってもいいんじゃないのかな? という程度の思いを持っただけだと思う。
そして一気に書き上げたのが、『仲良し狼』という30分ほどの人形芝居だった。留守番をしている山羊の子どもたちの家に入ってきた腹ペコ狼が、まったく疑いの知らない子山羊たちの反応に、己の性善説的本能を取り戻していくというストーリィである。
これは真山美保の『泥かぶら』とか、作者が思い出せないが『泥棒仙人』とかその他、宮澤賢治・新美南吉などにもたくさんある。だからこの芝居の話は別に珍しいものではない。ただ甘い童心至上主義とか敗北主義だとか批判されて、肩身が狭い思いをしたこともあった。
ところがこのところ、簡単に人を信用してもいいのか? という事件が頻発して、特に子どもたちには人を見たら悪人と思えというような風潮、大人の世界も性善説に頼っていたら生きていけないようなことになりつつある。そうゆう根本的なところが、曲がってくるとこの芝居の存在価値も一考を要することになりかねないが、せめて芝居の世界ではこの人間信頼の幸せを賛歌していきたいと思う。逆に今の時代、それが必要なのかもしれない。
今日の狼は、肉食できなくなった修業僧のような存在であり、そういう存在を前向きに捉えるために、音楽それもサキソフオンを演奏することに狼の自己存在の意義を見出し、その結果、子山羊たちと共存する物語である。この設定も演劇的(視覚的・聴覚的)で魅力ある着想だ。
『シアターラグ203 』の福村まりが、孤独な狼が吹くサキソフォーンを舞台上で演奏して、それがいかにも楽しそうであり、特に終演後のカーテンコールでは踊りながら演奏し彼女の意外な一面を見てこちらも楽しめた。