演 目
Beehive (ビーハイブ)
観劇日時/06.1.28
劇団名/Theater・ラグ・203 Wednesdy Theater ZOO提携公演
作・演出/村松幹男
音楽/今井大蛇丸
照明/鈴木亮介
音響/湯澤美寿々
宣伝美術/久保田さゆり
制作/たなかたまえ
劇場/シアターZOO

せっかちな台詞

 初演の03年5月、ラグリグラ劇場での観劇記(続・観劇片々第U号)を読み直して見た。「観劇はほとんど何十年ぶり、しかも小劇場なんて存在そのものを知らなかった」という僕の旧友・梶司の観劇感想と、それに対する僕の釈明のような反論とが書いてあった。まずその一部を抜粋する。
(松井の概観)「男2人・女1人の対人関係が、逆転・逆転また逆転と次々に思いがけない展開をする。観ている方が混乱すると同時に、次はどう変化するのか? という期待までをも楽しませる。
この三人の人間関係の複雑さが、現実にある人間関係の複雑さのメタファーとして衝撃的に提示される。SFチックな表現ではあるけれども、現実の人間関係の比喩として充分に納得できる勁さをもっている。」
(旧友・梶の概観)「一人の女と二人の男ABが三竦みで繰り広げるストーリイのない虚構に満ちたバーチュアルリアリティの世界。その世界にクラッシュの混入をも予測しているので何を信じていいのか訳が判らなくなる。コンピューターが支配する現代社会を観察すればこうなるのだ、というような説教的なニヒル誘導的な演劇であった。
強いてこの演劇を理解しようとすれば、人間が作り出したコンピューター社会は「ハチの巣」に似ていて、自分たちの作った巣の中に閉じ込められてその中で行動している。自由になるには隣の巣にいる仲間に救いを求めることなのだが、それもまた大きな巣の中のこと、ということなのだろうか。」 
その後、彼は『理解困難』な原因として5項目を挙げ、詳述している。
それに対して僕は、「観客の感性と表現者の感性との差異に驚き、その差異を検証することが観客の義務であり、それが観客としての表現である。そういう意味でこの友人は核心を衝いていると思う。観客の『理解困難』は表現者の観客に対する挑戦であり、この友人は受けて立っている。返す刀でお互いの世界が広がるのだ。」と書き、各項目にいちいち反論している。
それはまったくその通りなのだが、彼が挙げた第5項目の2点目、「解説的台詞部分は、週刊誌に興味を持つ男女と批判的な男の会話に置き換えた方が説教的にならなくていい」という指摘は、今回僕も強く感じた。
村松戯曲には、こういうせっかちで直截的な台詞がときおり現れる。批判的にではなく焦慮感がストレートに現れたという感じだ。これは演劇的ではないと常々思っていた。旧友・梶はそのことを指摘していたのだが、前回それを僕は見逃していた。
梶は元・官僚であるわりには、自由な発想の持ち主であり、だから僕も長年付き合ってきたわけだが、特に芸術やとりわけ演劇に強い関心があるわけではない。頭の良い奴だからアウトサイダーでありながら、いやアウトサイダーであるからこその前述したような鋭い指摘が出来るのかと感心する。
その後、何度か芝居を観る機会を紹介したのだが、積極的には乗っては来ず、着かず離れずの関係であり、賢明なのかどうなのか、彼らしい一つの生き方でありそれはそれで良いのかもしれない。
だが僕はしつこく機会を見て、観劇の機会を伝えていくつもりである。
さて今回の出演は、
女=伊東笑美子 男1=田村一樹 男2=柳川友希